2019年7月28日日曜日

縄文の宴 @林間学校

(2018年8月)

 うちの学校の林間学校は信州の入笠山で行う。山梨県との県境に近いエリアである。対象は中学1年生。その場で、以下の話をした。



☆ 縄文展(東京国立博物館にて ~9/2・中学生無料
 先日、東京上野の国立博物館で開催中の縄文展「縄文-1万年の美の鼓動」に行ってきた。そこでは日本全国から出土した縄文時代の土偶や土器を展示している。行ってみて分かったことだが、ここ入笠山の近くで出土したものがたくさん展示されていた。長野県の茅野市・伊那市、山梨県あたりである。
 縄文展の入場料は大人1600円、高校生900円で、中学生は無料。つまり僕は1600円払って見学したが、君たちは無料で見れるということだ。この夏休み中、9月2日までやっている。行くしかないね。
☆ 縄文のヴィーナス(茅野市尖石考古館・国宝第1号
 この(入笠山の)近くで出土したものが多く展示されているということは、この辺りが「縄文の里」と呼ぶにふさわしい土地だということだ。
 そのうちの1つを紹介しよう。長野県茅野市の棚畑遺跡から出土した「縄文のヴィーナス」だ。お腹の大きな女性の像、つまり妊婦さんだ。今は上野に行っているが、普段は茅野市の尖石考古館で展示している。縄文の土偶・土器の中で国宝に認定された第1号だということだ。
 レプリカでいいから「家に置きたい!」と僕は思ったね。他に「家に置きたい」と思ったのは、火焔土器。炎を型どったような大きな器だ。本気でネットで注文しようかな。
☆ 縄文の村(環状集落・竪穴式住居
 先ほどみんなが立てたテント、広場を中心にしてまぁるく並んだテント群を見て、僕は思ったよ。これは「縄文の環状集落」と同じじゃないか、と。テントだって竪穴式住居と同じようなものだ。木の骨組みがアルミになって、葉っぱで覆う代わりにビニールのシートを被せているが、基本構造は変っていない。地面に穴を掘れば、より快適に過ごせるんじゃないかな。
 今日は、テント泊。食事は野外で火を起こして自炊する。これってキャンプと言うより、縄文ライフと呼びたいね。
→ 縄文の宴(村の中心で火をくべる・土器を焼きたい)
 というわけで、今日の夜は「縄文の宴」だ。キャンプ・ファイアーと言うのはもう止めよう。本当は土器でも焼きたいところなんだけど、今から土をこねても間に合いそうにないな。
 あっそうだ。◯◯先生、ちょっと鹿でも獲ってきてよ!(実際、この近くに野生の鹿がいる)。火があるんだから、BBQやろうよ。最近の言葉で言うなら、ジビエ料理だ。
 えぇっと今日の消灯時間は、あれっ? ここに書いてある消灯時間、間違えてるね。(白板に書いてあった「21:45」にちょっと書き加えて「27:45」に勝手に変えて)はい、これで良し。では、縄文の宴を夜通し楽しもう。



 ここまで話したところで他の先生が現れて、白板に書き加えた部分を消されて「消灯時間 21:45」に戻された。僕の話は丸ごと無視されて、キャンプ・ファイアーの説明が始まった。
 次の日、めげずに僕は白板に以下の文面を書き足した。
→ ◯◯先生が獲ってきた鹿肉(狩猟)と、
  ◯◯先生が採ってきたどんぐり(採集)で、夜中にBBQした。
→ 縄文ライフ体験、以上で完結
ある先生に「年配が若手の邪魔して、何やってんだ!?」と言われた。別の先生には「お茶目だね」とほめられた。生徒たちからは「おもしろい先生」と呼ばれた。「教員にこそ多様性が大事」というのが、僕の信念。教員だったら、率先してバカをやれ。

2019年7月18日木曜日

恐竜博2019



 上野の国立科学博物館で催している「恐竜博2019」は写真撮り放題。写真中央が目玉の「むかわ竜」。
 でも、明日からは夏休みモードできっと混む。全身骨格を写真に撮れるのは、今日だけだ、たぶん。

 職場から駆けつけて、恐竜展を見て、遅めのランチは「恐竜プレート」。

2019年7月7日日曜日

☆ 今どきの読み・書き・そろばん


 黒板に書いた風にしてみました。これが今どきの「読み・書き・そろばん」なんじゃないのかなぁ、と。何のために国語・英語・プログラミングを学ぶのか、目標を定めたいですね。
 
  ◇ 3つの言語 
  ◇ プログラミングとは? 
  ◇ プログラミング的思考とは? 

 学校の役割はますます大きいですよ。

3つの言語

  ◇ 日本語で考え、英語で議論し、機械語で実現する

これが21世紀型ビジネスマンの典型的な姿なのではないでしょうか。

 私はいま3つの言語を取り上げました。日本語と英語と機械語です。この3つがこれから私たち日本人にとって必須の言語になるでしょう。そしてそれらのスキルを磨くことが、私たちが社会で活躍するための大きな要素になるだろうと私は思っています。
 そしてこれらが今の学校教育に欠けているものだと私は思うのです。確かに国語の授業はありますが、「考えるため」のものになっているでしょうか。英会話の重要性が言われていますが、「議論する」ことを目指しているでしょうか。プログラミング教育の必要性も言われるようになってきましたが、その目的は何でしょうか。

   ┌────3つの言語────┐
   ↓      ↓      ↓
  日本語考え英語議論し、機械語実現する
   │  ↑   │  ↑   │  ↑
   └──┘   └──┘   └──┘

 私は「考えるための日本語、議論するための英語、実現するための機械語」と捉えたいと思います。その意味では日本語も英語も機械語も道具です。目的は「考え、議論し、実現する」ことであって、そのためのスキルを向上させることがこれからの学校の役割だと思うのです。
 このスキルは特定の職種の人だけに該当することではありません。どんな方向に進むにせよ、

・社会の(速い)変化に合わせて自分の立ち位置を柔軟に変えながら、(←日本語で考え)
・世界中の誰とでも協力(力になってあげたり、もらったり)して、(←英語で議論して)
・コンピュータの力を自分の力とし、人工知能とも上手につき合う(←機械語で実現する)

そういう意味ではみんな同じだと思うのです。

 ここで振り返って現状の学校の授業を見てみましょう。まず現在の国語の授業で主に訓練しているのは読解力です。読解力とは「他人の言葉をそのまま受け取る力」。国語の試験対策でそうなっているのでしょうけれど、「考えるための国語」にはなっているでしょうか。
 余談ですが、読解の練習を繰り返すより、「自分で考える」練習をした方が読解力は身につきます。他人の考えを受け入れるばかりでは楽しくないですから。むしろ自分の考えを表明してみることから「他人の考えを聞こう」という気が起きるのではないでしょうか。

 次に英語。英会話が授業に取り入れられるようになったことはとても良いことだと思います。願わくば、考えなければ答えられないような質問をかけてあげてください。「今ここにトランプさん(アメリカ次期大統領)が現れたら、何を聞きたい?」とか「どうしてアメリカ人は1(単数)と2(複数)の違いにこだわるわりに、2と3の違いに無頓着なんだろう?」とか。
 ところで、英会話と呼ぶより「英対話」と呼ぶことにしませんか。気軽なおしゃべり、楽しい会話が英語でできればそれはそれで良いことだと思いますが、仕事をするには対等な意見交換が必要で、会話というより「対話」だろうと私は思うのです。

 そして機械語。これは現状ではほとんど無いに等しいのです。英語と同様に、いやむしろ英語以上に「世界の共通言語」になるはずの機械語を、今の日本の中高生の多くは一切触れることなく卒業してしまっています。
 ところで私は「プログラミング教育」と言うより「ソフトウェア教育」と呼びたい。これから「開発アプリ」なるものがますます登場して、機械語レベルでいじることが今よりずっとお気軽になるでしょうし、ソフトウェアを使いこなすこともとても大事だと思うからです。もちろんみんなが同じソフトウェアを使う必要はありません。違うものを使えばいいのですが、何も使おうとしないのは、その人にとって大きな損失になりかねません。

 この3つの言語を一通り学校で学びたい。それが「21世紀の読み・書き・そろばん」だと思うのです。
 そうは言っても人には得手・不得手がありますし、もちろん役割分担があって良いわけです。また、何かに秀でていればそれで良い場合もあるでしょう。これからの時代のもう一つのポイントは「多様性」ですから、みんな違っていて良いのですけれど、日本人全体として今よりもっともっとスキルアップしなければならない点だと私は思います。
 さて、具体的にどうやってスキルアップを図るか。3つの言語にはそれぞれ特徴があります。

  ・ 幼少からの蓄積がものを言う「日本語」
  ・ やり始めるとキリがない「英語」
  ・ 多種多様で進化の早い「機械語」

 気がつくと私はおおよその答えを書いていましたね。小学校1年生から(あるいは幼稚園・保育園の頃から)じっくり時間をかけて「考える」経験をさせ、英語は学校で完成させようと思わずに社会人になって仕事で「実践的に使い」ながらさらにレベルを上げ、コンピュータのプログラミングやソフトウェアの利用は「取っつきやすい」ところから始めてだんだんとみんながそれぞれに違うソフトウェアを使うようになれば良いのだと私は思います。何をやったところで、どうせすぐに古くなるのですから。
 一方で目的をしっかり定めましょう。目指すところは、

  ◇ 日本語で考え、英語で議論し、機械語で実現する

こと。学校の役割は大きいですよ。