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2020年7月26日日曜日

もったいないのココロ

「もったいない」とはもともと「おそれおおい」や「ありがたい」と同じような意味合いの言葉だった。最近では「物を無駄にしない」とか「節約する」という意味で使うようだが、もともとの使い方はちょっと違う。

  ◇ 畑でとれたものは神様から頂いたもったいないものだから、
    粗末に扱っちゃいけない
  ◇ 熊の体は熊が人間にくれたもったいないものだから、
    肉も皮も毛もすべて大事に使わせてもらおう
  ◇ 鎌(かま)や鍬(くわ)は農作業に使うもったいない
    ものだから、足でまたいじゃいけない

 この言葉、すべてに神が宿ると考える日本人の感性に由来する言葉である。だから、時には無駄使いに見えるような行為にもなる。

  ◇ 食事のたびにもったいないご飯を神棚に供える
  ◇ 収穫物からできたもったいないお酒を庭にまく
  ◇ 自分の修養のために使わせてもらったもったいない道具を燃やして神様に返す

 もともとの意味合いでは、捨てるという「行為」がもったいないのではない。神様が宿ったその「物」がもったいないのである。極めて日本人的な言葉である。

2020年5月4日月曜日

☆ コロナで哲学 ー生活編ー

 コロナで損したこと・得したこと、これからの暗い見通しと明るい見通し、コロナは自分に有利に働くのか不利に働くのか。

  ◇ マスクやぁめた、ステップ2  
  (→ https://omori555.blogspot.com/2020/06/blog-post_17.html )
  ◇ 「自粛要請」が成り立つ条件 
  (→ https://omori555.blogspot.com/2020/05/blog-post_24.html )
  ◇ 半年後のコロナ生活を考える3つの視点 
  (→ https://omori555.blogspot.com/2020/04/blog-post_18.html )
  ◇ 通勤・通学は3密なのか? 
  (→ https://omori555.blogspot.com/2020/05/blog-post_21.html )
  ◇ スーパーに行くのに忘れ物 
  (→ https://omori555.blogspot.com/2020/06/blog-post_11.html )

 これまで進みそうでなかなか進まなかったことが、コロナ騒動で一気に進んだと、そういう面が確かにあるんだろうな。そう考えると、コロナ騒動は必ずしも悪いものでも無いかな、と。

2020年2月2日日曜日

☆ 悩み

忘れようとしても、忘れられない。
振り払おうとしても、まとわりついてくる。
逃げても隠れても、律儀に追いかけてくる。
なぜか?
それが自分の大切なものだからだ。自分の一部だからだ。
◇ 悩みはなぜ悩みなのか? 
◇ 疑問は解答の可能性である 
◇ 「考えることに価値がある」という確信 
◇ マリモ型の思考 
では、どうすればいいのか?
「悩むこと」と「考えること」を同じものだと捉えよう。
それだけで、きちんと考えることができて、無駄に悩むことが無くなる。
悩みを避けていては、しまいに人は考えることをしなくなる。

2020年1月19日日曜日

生命力曲線 と 高齢者医療


 おおむね、こんな(↑)感じなんじゃなかろうか。生命力が衰えて、いろんな病気になって、放っておけば安らかに死ねるものを、医療を施すことによって、命を長らえる代わりに、本人は苦しみ、家族は介護に追われ、国家は財政を逼迫させる。

◇ 1000万円を高齢者医療に使うか、子供の学費に使うか
 高齢者医療にかかる費用を1000万円としよう。健康保険負担分や介護のための労働を勘案すれば、ゆうにそれくらいにはなるだろう。また、子供を大学に入れて卒業までにかかる費用も同じくらいだとしよう。その両方を支払ってまだまだ余裕がある家庭もあるだろうし、その片方も払えない家庭もあるだろうが、ここでは片方なら払えるが、両方は払えないという経済レベルを想定する(割と平均的な家庭だと思うのだが、どうだろう)。
 さて、あなたなら1000万円をどちらの費用に充てるか? 1000万円を年老いた親が4年間生きながらえるために使うか、それとも子供が大学に通う4年分の学費に充てるか。あるいは、あなた自身が病を抱える高齢者だとして、そのお金を自分のために使うことを望むか、それとも孫のために使うことを望むか。

◇ 「生まれ変わり」という物語
 生命には「自分を修復する能力」と「新しい生命を生み出す能力」がある。そして、どちらを採用するかは、コストの問題である。「古いものを修復して使い続ける」方が安上がりなうちはそうするが、そうするのは割に合わないと見做せば「古いものを放棄して新しいものに作り変える」。だから、生命には寿命があって、子孫を残すのである。
 コストを無視してまで「修復して使い続けよう」とする動機は、生命には無い。でも、古い生命が死ぬ代わりに、子や孫に命が引き継がれる。そういう形で、生命は生き続ける。そしてまた、自分が死んでも、きっと生まれ変わるのだろう。そういう楽しい物語もある。

◇ 65才以上の高齢者に対する医療を禁止する法案
 法律でこう決めちゃったらどうだろう。これが無茶だというなら、百歩譲って「65才以上の高齢者に対する医療に100%の税を課す」とか。それでもダメだというなら、千歩譲って「65才以上の高齢者に対する医療を全額自己負担とする」でもよい。最後の案でも、高齢者医療の件数は今よりずっと少なくなるだろう。そしてそうなれば、安らかに死ねる老人が増えて、家族は未来のことに力を注ぐことが出来て、国家財政も安定する。良いことづくめである。
 生命力旺盛なら100才でも200才でも生きてくれたら良いと思うが、やがて必ず衰えるはずなので、そうなったらスムーズに引き継ぐことをむしろ積極的に考えた方がいいんじゃなかろうか。


《 過去の記事 》
◇ オレが死んだらライオンのエサにしてくれ
◇ 致死率100%の病
◇ 死という課題

2020年1月17日金曜日

2019年5月26日日曜日

★ アニメと神話と童話にみる、日本人の心

☆ アンパンマン・ワールドは八百万の神の国
(→ https://omori555.blogspot.com/2019/04/blog-post_33.html )

  ◇ アンパンマンの不思議を神話で読み解く 
  ◇ バイキン城はどこにある? 
  ◇ アンパンマン・ワールドの経済学                など


☆ 古事記の成り立ち
(→ https://omori555.blogspot.com/2019/04/blog-post_19.html )

  ◇ 古事記の成り立ち 
  ◇ 海水で身を清めるバカ               因幡のしろうさぎ
  ◇ 海の政権をやっつけた話               海幸彦・山幸彦
                                   など

☆ 宮沢賢治の童話
(→ https://omori55.blogspot.com/2019/04/blog-post_37.html )

  ◇ 宮沢賢治の童話にみる、動物と人との関係        氷河鼠の毛皮
  ◇ 宮沢賢治も知っていた、二酸化炭素の温室効果  グスコーブドリの伝記
  ◇ 「雨にも負けず」のアンバランス                など


☆ 昔話にみる日本人の心
(→ https://omori555.blogspot.com/2019/03/blog-post_49.html )

  ◇ 浦島太郎の不倫騒動
  ◇ かちかち山の報復合戦
  ◇ こぶとり爺さんの不条理

2019年4月15日月曜日

損得気分曲線


 たとえば株を買ったとして、「実際の損得」と「気分的な損得感」は実は全然ズレているのである。右グラフにおいて、横軸が「実際の損得」で、縦軸が「気分的な損得感」で、原点が「買値」である。

 気分に全く影響されず氷のように冷静に判断するのであれば、「実際の損得」と「気分的な損得感」は一致するはずである。その場合、グラフは右図の 緑色の点線 のようになる。これがいわば 理論曲線(直線)である。
 しかし、お金がかかっていれば、人は無感情ではいられない。平均的かつ良心的な一般投資家の 損得気分曲線 は右図の 茶色の実線 のようになる。その特徴は、
  • 原点付近で傾きが急になる。
    つまり、買値からの少々の値動きに過度に反応する。
  • しかも、プラス側よりマイナス側の傾きの方が大きい。
    つまり、特に損することに対して極端に敏感である。
  • そこから さらにマイナス側では、傾きが緩やかになる。
    つまり、損がかさむと急にどうでもよくなってしまう。
  • プラス側では、気分曲線は常に理論曲線の上にある。
    つまり、得した場合は実際の得以上に得した気分になる。
要するに普通の人は、小さな損に対してだけ極端に悲観的で、それ以外は基本的に楽観的なのである。こんなんで儲かるわけがない。補足すると、
  • 原点付近で頻繁に売り買いするのが デイトレ である。この領域では実際の損得以上に気分が盛り上がるから、まさにゲーム感覚なのだろう。
  • グラフの左下でほぼ平らになった状態のことを、業界用語で 塩漬け という。「そのうちなんとかなるさ」という超楽観的な気分が支配する領域である。
  • グラフの右上では、儲け話 を大げさに語る人が現れる。雑誌などが取り上げることも多い領域なので、これに巻き込まれる人が後を絶たない。
だから、まともな感性の持ち主は株投機なんかをやっちゃいかんのだ。

芋と豆と栗

まず、傾向としていえることは、芋 が好きなのは 女 。特に、さつまいも。
また、これも傾向としていえることだが、豆 が好きなのは 男 。ナッツの類。
そして、競合するのが 栗 だ。 栗 は芋と豆の中間にあるから、女も男も好きなんだ。

妻は 芋 を買ってきて、ボクが食べないことを知ってるから、平気で見えるところに置いておく。
ボクは 豆 を買ってきて、妻に食べられる心配がないから、これ見よがしにドォーンと置いておく。
ところが 栗 を買ってきたときは、こそこそ隠すんだな。でも、見つかって食われちゃうことがしばしば。

この人類共通(?)の事象は、女 と 男 の体の違いに由来しているのかしらん。
なんとかして 栗 を 女 の魔の手から守る方法はないものか。

2019年4月9日火曜日

マリモ型の思考

 人がある事を考えるとき、はっきりと答えを出さずに、あえてそのままにすることがある。いや、実際には答えを出すことの方が少なくて、ずっと多くのものを未解決のまま抱えているのだろう。
 そして、そのまま何日も何か月も何年も胸の中にしまっておく。頭で忘れて、心で記憶するのだ。その間に、いろんな経験をし他のことも考えて、知らないうちにその記憶が少しずつ成長する。あたかも湖の底で人知れず静かに成長するマリモのように。
 何日か何か月か何年かするうちに、知らぬ間に問題が解決して答えを得ていることもあるだろう。何日か何か月か何年か後に、大きく成長したマリモを取り出して、再び考え始めることもあるだろう。

 人は、自分が抱えている問題意識の数だけ賢くなれる。問題が大きければ大きいほど、自分にとって切実であればあるほど、時間がかかり、得るものは大きい。
 あせる必要はない。いま答えが出ないものは、どうせ出ないんだから。
 だからといって、捨て去るのはもったいない。それは自分の可能性なんだから。人はまだまだ成長するのだから、いま白黒はっきりさせなくても、それをしっかり心で記憶すればいい。
 疑問や悩みもまた、しばらく考え悩んだあとは、そっと心の記憶に沈めればいい。そうして、育ってくれるのを待っていよう。マリモのように。
 今は答えが出なくても、心の中でしっかり育てば、いつか必ず答えを出せる。

悩みはなぜ悩みなのか?

ボクは次のように考えていたのである。
考えることと悩むことは、何が違うんだろう? どこが同じなんだろう?
そしてあれこれ考えるうちに、
そもそも考えることと悩むことは、違うものなんだろうか?
それとも、同じものなんだろうか?
と考えたのである。ところで考えてみると、
考えることと悩むことは違うといえば違うし、同じといえば同じ
なんじゃないかと思った。というのは、
考えることと悩むことは、お互いに移り変わるもの
だろうからである。そこで、ちょっと考え方を変えてみた。
考えることと悩むことを区別して扱うのと、
同じものとみなすのではどちらがいいんだろうか?
と。つまり、この問いを 正誤の問題 ではなく、意思の問題 と捉えたのだ。 そうしたら、答えが見えた。
悩みはなぜ悩みなのか? 
  → それを思考の枠組みに置かないからだ。避けようとするからだ。

なぜきちんと考えないのか?
  → それが悩みに転換するからだ。だから、ほどほどになってしまう。

では、どうすればいいのか?
  → 考えることと悩むことを区別せずに、同じものとみなせばよい。
こんな単純な問題だった。それだけで、きちんと考えることができて、無駄に悩むことが無くなるのである。

明日まであと1日!

 高校3年生の教室の黒板に書いてあった。
◇ センター試験まで、あと○○○日!
◇ 国立2次試験まで、あと○○○日!
そして、もう1つ。
◇ 明日まで、あと1日!
センター試験や国立2次試験までの日数は今現在3ケタの数だが、これから毎日1つずつ減っていく。書いてしまった以上カウントダウンが始まって、これから毎日書き換えなければならないことになる。
 一方で、3つ目の話題「明日までの日数」は書き換えなくてよい。ずっと1のままでよい。

 3つ目がなかなかおもしろい。それをちょっと書き換えて、
◇ 明日は永遠にやってこない...
と言えば、ちょっとした格言のようにも聞こえる。なるほど、確かにそうだ。そして、身に覚えもある。
◇ 締め切りの無い仕事は終わらない
◇ 無期限の目標は達成しない
そのように考えると、受験であれ何であれ、期日が設けられているからこそ意味があるんだなと思った。

いじめと言わず、スクハラと言おう

2014年11月13日

 「スクハラ」とはスクール・ハラスメントのこと。セクシャル・ハラスメントを「セクハラ」と言い、パワー・ハラスメントを「パワハラ」と呼ぶのと同じである。(ちなみに「スクハラ」も「スクール・ハラスメント」も、私が勝手に作った用語である)
 「いじめ」と呼ぶより「スクハラ」と呼ぶ方が良い理由は、3つある。
 1つ目は、何を言ったか何をやったかよりも「受け手の感じ方が重要視される」こと。セクハラについて、言った側からすれば「親しみの表現」のつもりであっても、受け手がセクハラと感じれば、セクハラとなる。パワハラも、言った側からすれば「注意・指導」のつもりであっても、受け手がパワハラと感じれば、パワハラとなる。およそ、そういう社会的合意がある。さて、学校で嫌がらせされたり、不愉快な思いをさせられた場合、それを「いじめ」と呼んだのでは、相手が「遊んでいた」と言えば、「それはいじめではない」ということになりかねない。一方、それを「スクハラ」と呼べば、受け手がスクハラと感じた時点で、それはスクハラなのである。
 2つ目は、言った人・やった人を責めることよりも「受けた人を守ることが目的となる」こと。セクハラもパワハラもまさにその通りであって、一方を叩くのが目的ではなくて、もう一方を守ることこそが目的なのである。さて、それを「いじめ」と呼ぶと「いじめた側を懲らしめよう」という発想になったり「いじめを撲滅しよう」というスローガンになったりする。一方、それを「スクハラ」と呼べば、視点が受け手の方に移動して「学校で辛い思いをしているなら、その子を何とか守ってやろう」という発想に自然となるのである。
 3つ目は、それは「いつでもどこでも誰にでも起こりうること」という共通認識が生まれること。そして「だから、そういう言動をしないように気をつけよう」という心掛けが生まれること。セクハラもパワハラも、そういう用語を使うようになって、そういう共通認識と心掛けが一般的なものになった。それを「いじめ」と呼んだのでは、それが特殊な例だというイメージを醸して、それを「あってはならないこと」ととらえたり「いじめられる方にも問題があるのでは?」と考えたりしがちである。一方、それを「スクハラ」と呼べば、「スクハラと言われるようなことをしないようにしよう」という心掛けが自然と生まれるのである。
 スクハラもセクハラもパワハラもたぶん無くなったりはしないだろう。けれどもそれらの言葉が、「いつでもどこでも誰にでもありうること」つまり「ありふれたこと」だと認めつつ、円滑なコミュニケーションと「弱い立場の人を守る」という目的のために、「相手が不愉快に感じるようなことはしないようにしよう」という心掛けを育むのである。

2019年4月3日水曜日

☆ 宮沢賢治の童話にみる、ニッポンの心

  ◇ 宮沢賢治の童話にみる、森と人との関係       狼森と笊森、盗森
  ◇     〃      動物と人との関係        氷河鼠の毛皮
  ◇     〃      個性・差別化・あるがまま   どんぐりと山猫
  ◇     〃      ニッポンの神様         土神ときつね
  ◇ 宮沢賢治も知っていた、二酸化炭素の温室効果  グスコーブドリの伝記

  ○ 雨にも負けずのアンバランス               雨ニモマケズ

 自分で言うのもなんですが、彼と僕はちょっと似ているような気がしてきました。彼が生きた年数の倍くらいを僕はたぶん生きるので、彼の半分くらいの仕事ができたらなぁと思っているところです。

宮沢賢治の童話にみる、ニッポンの神様

 日本人にとっては、貧乏神もたたり神も神様である。神様がみんな高貴だとは限らない。人間以上に人間っぽい神様もいたりする。童話「土神ときつね」にはそんな神様が登場する。
 土神は沼地のようなところに住んでいる神様である。おそらくは汚らしい恰好をして、あまり今風な感じはしない。祠を訪れる人も少なく、祠は荒れている様子である。土神はときに人をそこに誘い込んで、意地悪をするようだ。
 それと対照的なのが、きつねである。きつねはおしゃれで物知りである。多少見栄っ張りなところとお調子者のところはあるが、今風の好青年だといえよう。
 一本木の野原の、北のはずれに、少し小高く盛りあがった所がありました。いのころぐさがいっぱいに生え、そのまん中には一本の奇麗な女の樺の木がありました。・・・(略)・・・
 この木に二人の友達がありました。一人は丁度五百歩ばかり離れたぐちゃぐちゃの谷地の中に住んでいる土神で一人はいつも野原の南の方からやって来る茶いろの狐だったのです。
土神はきつねにやきもちを焼いているようです。そしてある日、あろうことか、土神はきつねを殺してしまうのです。
秋の日のことです。土神は上機嫌で樺の木のところに来ました。
 そこにきつねがやってきました。樺の木と土神ときつねは少し話をして、きつねは戻っていきました。
 土神はしばらくの間ただぼんやりと狐を見送って立っていましたがふと狐の赤革の靴のキラッと草に光るのにびっくりして我に返ったと思いましたら俄かに頭がぐらっとしました。・・・(略)・・・
 土神はいきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四五へん踏みつけました。
 それからいきなり狐の穴の中にとび込んで行きました。中はがらんとして暗くただ赤土が奇麗に堅められているばかりでした。土神は大きく口をまげてあけながら少し変な気がして外へ出て来ました。
 それからぐったり横になっている狐の屍骸のレーンコートのかくしの中に手を入れて見ました。そのかくしの中には茶いろなかもがやの穂が二本はいって居ました。土神はさっきからあいていた口をそのまままるで途方もない声で泣き出しました。
 その泪は雨のように狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑ったようになって死んで居たのです。
ここでお話は終わります。今時の倫理観からすると、土神のやったことは無茶苦茶といえるだろう。三流ドラマのストーリーあるいは三面記事的な事件ととらえれば、どこにでも転がってる話といえなくもない。
 でも、意外と暗くないのである。悪い気はしないのである。いや、なんか引っかかるといったらいいだろうか。なぜなんだろう。


宮沢賢治の童話にみる、個性・差別化・あるがまま

 森のどんぐりたちが裁判で争っています。一郎が、裁判長の山猫に呼ばれて、意見を求められました。宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」から、引用します。

   ・・・(略)・・・
空が青くすみわたり、どんぐりはぴかぴかしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山猫が、すこし心配そうに、それでもむりに威張って言いますと、どんぐりどもは口々に叫びました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。」
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。」
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。」
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。」
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」
   ・・・(略)・・・
山猫が一郎にそっと申しました。
「このとおりです。どうしたらいいでしょう。」一郎はわらってこたえました。

 どんぐりたちは、差別化を望み、個性を主張し合い、お互いに競争しているようです。
 ここで、一郎が判決案を出します。山猫はどんぐりたちにその通りに申し渡して、争いはすぐに収まりました。
 さて、出された判決はどんなものだったのでしょう。みなさんも、ちょっと考えてみてください。
 引用を続けます。

「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」山猫はなるほどというふうにうなずいて、それからいかにも気取って、繻子のきものの胸を開いて、黄いろの陣羽織をちょっと出してどんぐりどもに申しわたしました。
「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」
どんぐりは、しいんとしてしまいました。それはそれはしいんとして、堅まってしまいました。
   ・・・(略)・・・

 名判決だと思いませんか? 毎年繰り広げられて今年も三日間ももめていた争いをものの1分半で解決したのですから、さすがに名判決だと言えるでしょう。おそらくこの判決は、多くの読者にとって予想外のものだったんじゃないでしょうか。そして、その判決に、心が躍るような楽しさ・嬉しさを感じたんじゃないでしょうか。
 判決は「いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい」でした。
 さて、この判決の真意は何でしょう。結局、どのどんぐりがえらいのでしょうか。
 またこの判決を聞いて、どんぐりたちはなぜ「しいんとして、堅まってしまった」のでしょうか。どんぐりたちは、そのとき何を考えていたのでしょうか。

 では、【問題】です。



 下のA,B,Cからあなたが判決の真意と考えるものにもっとも近いものを選んで、なぜそのように考えるのかを説明しなさい。その際、判決を聞いてしいんと堅まりながらどんぐりたちは「何を考えていたのか」についてのあなたの考えを含めること。
◇ どのどんぐりも全部 同じ。
◇ どのどんぐりも全部 えらい。
◇ どのどんぐりも全部 ばか。
頭で理屈で考えるのではなく、あなたの心の声を聞いてみてください。判決を聞いたときの驚き・感心・ウキウキ感を思い出せば、答えが1つに絞れるのではないでしょうか。
(どっちつかずの立場でなく、どれか1つに絞って、一貫性のある説明をしてください)



《文章例》
<Aプラン>
 「どんぐりの背比べ」という言葉があるように、「どのどんぐりも全部同じ」というのが、判決の趣旨だと思う。要するに「人と比べたり、人の評価を気にしたりして一喜一憂するのはつまらないことだから、気にするな」と言いたいんだと思う。
 判決を聞いてどんぐりたちは「自分たちがつまらないことにこだわっていた」ことに気がついたんだろう。また自分にとっては大事に思えることでも「他人から見たらどうでもいいこと」だったりする。それらに気がついて、どんぐりたちは反省したんだと思う。

<Bプラン>
 どんぐりたちは争っていたというより、「個としての自分、自分の存在意義」を自ら認め、また他人にも認めてほしかったのだと思う。そして判決は「一見ヘンに見えるどんぐりだって、いちばんえらいんだ」ということだから、つまりは「どのどんぐりも全部えらい」ということになる。
 その見方はどんぐりたちには新しい見方だった。それはやがてどんぐりたちに定着していくんだろうけれど、すぐに取り込むことはできない。だから、どんぐりたちは堅まりながらその意味をかみしめているんだと思う。

<Cプラン>
 判決は「外見だけを問題にして、『自分がいちばんえらい』などと考えるのはバカげたことだ」という意味だと思う。言い換えると、「争うこと自体がバカげたことだ」というのが判決の真意だと思う。つまり、「どのどんぐりも全部ばか」ということである。
 またこの判決に従えば、「いちばんえらい」と認められたどんぐりは「ばかで、めちゃくちゃで、・・・」ということになる。「自分がいちばんえらい」と主張することは、それを認めることになる。そう思われたくないから、どんぐりたちは黙ったんだろうと思う。

《解説》
 ことわざ「どんぐりの背比べ」はAプラン、SMAPの「世界に一つだけの花♪」はBプラン、Cプランは「ケンカ両成敗」、そんなところでしょうか。
 文学はいろんな読み方ができるものです。この設問もどれが正解ということはありません。筋が通っていて説得力があれば、なんでもいいんです。
 ただこの設問に答える上で大事なことは「立ち位置を決めたら、ブレないこと」です。立ち位置を決める前のフラフラした状態のまま書き始めたのでは、一貫性のあるまとまった文章は書けないでしょう。


宮沢賢治の童話にみる、動物と人との関係

 宮沢賢治の童話に「氷河鼠(ねずみ)の毛皮」という作品があります。冬の寒い日のベーリング(北極圏)行きの列車の中でのお話です。主な登場人物は3人です。
タイチ:高級な毛皮を身にまとい、防寒対策は万全。これから動物の毛皮を取りに行く。
赤ひげ:動物たちのスパイとして列車に乗り込んでいる。狐と思われる。
船乗り:たまたま乗り合わせていた乗客。事件を解決に導く。
さて、物語の最終章。列車乗っ取り事件が起きます。
 突然列車が止まり、ピストルを持った赤ひげに続いて、熊と思しき人たちが列車に乗り込んできました。そしてタイチを捕えて、吹雪の車外へ連れ出そうとします。
 その瞬間、船乗りが赤ひげのピストルを奪い、赤ひげを捕虜にして言いました。以下、引用します。
「おい、熊ども。きさまらのしたことは尤もだ。けれどもなおれたちだって仕方ない。生きているにはきものも着なけあいけないんだ。おまえたちが魚をとるようなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるように云うから今度はゆるして呉れ。ちょっと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから」
「わかったよ。すぐ動かすよ」外で熊どもが叫びました。
  ・・・(略)・・・
「さあけがをしないように降りるんだ」船乗りが云いました。
赤ひげは笑ってちょっと船乗りの手を握って飛び降りました。
「人間は仕方なく動物を殺している。動物たちがそれに抗議するのは正当だ。だから取り過ぎないようにする」。身も蓋もなく言ってしまえば、これが動物たちと人間との合意内容です。赤ひげはそれに満足しています。
 ここがポイントだと思うのですが、赤ひげは去る間際に船乗りと握手していますね。言い方を換えれば、人間は動物に感謝しながら、その体を自分たちのために使わせてもらうということでしょう。
 太古の昔から人間は、そんな感覚を持ち続けてきたのだろうと思います。


宮沢賢治の童話にみる、森と人との関係

 宮沢賢治の童話に「狼森(オイノもり)と笊森(ざるもり)、盗森(ぬすともり)」という作品があります。引用しながら、紹介します。

 まずは、男たちが森に囲まれた野原を、開墾しようとしていた場面です。そこで四人の男たちは、てんでにすきな方へ向いて、声を揃えて叫びました。
「ここへ畑起こしてもいいかあ。」
「いいぞお。」 森が一斉にこたえました。
みんなは又叫びました。
「ここに家建ててもいいかあ。」
「ようし。」森は一斉にこたえました。
みんなはまた声をそろえてたずねました。
「ここで火たいてもいいかあ。」
「いいぞお。」森は一ぺんにこたえました。
みんなはまた叫びました。
「すこし木貰ってもいいかあ。」
「ようし。」森は一斉にこたえました。
ところで、人は森から一方的に恩恵を受けるのではありません。森が人におねだりすることもあるようです。
「おらさも粟餅持って来て呉(け)ろよ。」と叫んでくるりと向こうを向いて、
手で頭をかくして、森のもっと奥の方へ走って行きました。
人が収穫した粟を、森が盗んだこともあったようです。
岩手山はしずかに云いました。
「・・・(中略)・・・ 盗森は、じぶんで粟餅をこさえて見たくてたまらなかったのだ。それで粟も盗んで来たのだ。はっはっはっ。」
こうして、森と人は友達になっていきました。

 「自然を守れ」というのとは、ちょっと違う。「自然と人間の共生」というのとも、ちょっと違う。
日本人の心の中にある 森と人との関係 がよく表れている作品だと思います。


生没年

 本の中やテレビのテロップで、あるいはネット上の記事で歴史上の人物について次のような記述を見かける。たとえば、
持統天皇 (645~703年)
ガリレオ (1564~1642年)
宮沢賢治 (1896~1933年)
括弧内はその人物の生没年である。さて、このような記述を見て、あなたは何を考えるだろうか? この数字を見て、あなたは何をするだろうか?
 かく言う私は、なにはともあれ引き算するのである。そして、けっこう長生きしたんだなぁとか、うーんそんなもんかとか、そんなことを考える。そして、自分の今の年と比べる。条件反射みたいなものである。