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2019年7月28日日曜日

縄文の宴 @林間学校

(2018年8月)

 うちの学校の林間学校は信州の入笠山で行う。山梨県との県境に近いエリアである。対象は中学1年生。その場で、以下の話をした。



☆ 縄文展(東京国立博物館にて ~9/2・中学生無料)
 先日、東京上野の国立博物館で開催中の縄文展「縄文-1万年の美の鼓動」に行ってきた。そこでは日本全国から出土した縄文時代の土偶や土器を展示している。行ってみて分かったことだが、ここ入笠山の近くで出土したものがたくさん展示されていた。長野県の茅野市・伊那市、山梨県あたりである。
 縄文展の入場料は大人1600円、高校生900円で、中学生は無料。つまり僕は1600円払って見学したが、君たちは無料で見れるということだ。この夏休み中、9月2日までやっている。行くしかないね。
☆ 縄文のヴィーナス(茅野市尖石考古館・国宝第1号)
 この(入笠山の)近くで出土したものが多く展示されているということは、この辺りが「縄文の里」と呼ぶにふさわしい土地だということだ。
 そのうちの1つを紹介しよう。長野県茅野市の棚畑遺跡から出土した「縄文のヴィーナス」だ。お腹の大きな女性の像、つまり妊婦さんだ。今は上野に行っているが、普段は茅野市の尖石考古館で展示している。縄文の土偶・土器の中で国宝に認定された第1号だということだ。
 レプリカでいいから「家に置きたい!」と僕は思ったね。他に「家に置きたい」と思ったのは、火焔土器。炎を型どったような大きな器だ。本気でネットで注文しようかな。
☆ 縄文の村(環状集落・竪穴式住居)
 先ほどみんなが立てたテント、広場を中心にしてまぁるく並んだテント群を見て、僕は思ったよ。これは「縄文の環状集落」と同じじゃないか、と。テントだって竪穴式住居と同じようなものだ。木の骨組みがアルミになって、葉っぱで覆う代わりにビニールのシートを被せているが、基本構造は変っていない。地面に穴を掘れば、より快適に過ごせるんじゃないかな。
 今日は、テント泊。食事は野外で火を起こして自炊する。これってキャンプと言うより、縄文ライフと呼びたいね。
→ 縄文の宴(村の中心で火をくべる・土器を焼きたい)
 というわけで、今日の夜は「縄文の宴」だ。キャンプ・ファイアーと言うのはもう止めよう。本当は土器でも焼きたいところなんだけど、今から土をこねても間に合いそうにないな。
 あっそうだ。◯◯先生、ちょっと鹿でも獲ってきてよ!(実際、この近くに野生の鹿がいる)。火があるんだから、BBQやろうよ。最近の言葉で言うなら、ジビエ料理だ。
 えぇっと今日の消灯時間は、あれっ? ここに書いてある消灯時間、間違えてるね。(白板に書いてあった「21:45」にちょっと書き加えて「27:45」に勝手に変えて)はい、これで良し。では、縄文の宴を夜通し楽しもう。



 ここまで話したところで他の先生が現れて、白板に書き加えた部分を消されて「消灯時間 21:45」に戻された。僕の話は丸ごと無視されて、キャンプ・ファイアーの説明が始まった。
 次の日、めげずに僕は白板に以下の文面を書き足した。
→ ◯◯先生が獲ってきた鹿肉(狩猟)と、
  ◯◯先生が採ってきたどんぐり(採集)で、夜中にBBQした。
→ 縄文ライフ体験、以上で完結。
ある先生に「年配が若手の邪魔して、何やってんだ!?」と言われた。別の先生には「お茶目だね」とほめられた。生徒たちからは「おもしろい先生」と呼ばれた。「教員にこそ多様性が大事」というのが、僕の信念。教員だったら、率先してバカをやれ。

2019年7月18日木曜日

恐竜博2019



 上野の国立科学博物館で催している「恐竜博2019」は写真撮り放題。写真中央が目玉の「むかわ竜」。
 でも、明日からは夏休みモードできっと混む。全身骨格を写真に撮れるのは、今日だけだ、たぶん。

 職場から駆けつけて、恐竜展を見て、遅めのランチは「恐竜プレート」。

2019年5月26日日曜日

★ アニメと神話と童話にみる、日本人の心

☆ アンパンマン・ワールドは八百万の神の国
(→ https://omori555.blogspot.com/2019/04/blog-post_33.html )

  ◇ アンパンマンの不思議を神話で読み解く 
  ◇ バイキン城はどこにある? 
  ◇ アンパンマン・ワールドの経済学                など


☆ 古事記の成り立ち
(→ https://omori555.blogspot.com/2019/04/blog-post_19.html )

  ◇ 古事記の成り立ち 
  ◇ 海水で身を清めるバカ               因幡のしろうさぎ
  ◇ 海の政権をやっつけた話               海幸彦・山幸彦
                                   など

☆ 宮沢賢治の童話
(→ https://omori55.blogspot.com/2019/04/blog-post_37.html )

  ◇ 宮沢賢治の童話にみる、動物と人との関係        氷河鼠の毛皮
  ◇ 宮沢賢治も知っていた、二酸化炭素の温室効果  グスコーブドリの伝記
  ◇ 「雨にも負けず」のアンバランス                など


☆ 昔話にみる日本人の心
(→ https://omori555.blogspot.com/2019/03/blog-post_49.html )

  ◇ 浦島太郎の不倫騒動
  ◇ かちかち山の報復合戦
  ◇ こぶとり爺さんの不条理

2019年5月4日土曜日

おにぎりと爆弾と大砲玉のエネルギー比較

 次の中でエネルギー量がもっとも大きいのはどれだ?
  •  おにぎり
  •  おにぎり大の 爆弾 
  •  飛んでくるおにぎり大の 大砲の玉 
ただし、おにぎりの大きさ、おにぎりのタネ、爆弾の化学成分、大砲の玉の速さなどは、回答者が想定・仮定して、計算式を含めて答えること。



 今日の【宿題】です。誰への宿題かって? もちろん、あなたへの宿題です。

(理系の高校生には問答無用!でやらせたい。出題者の私はまだやっていませんが、意外とおにぎりのカロリーが高いんじゃないかと想像しています。みんなが爆弾や大砲玉よりもおにぎりを食べるのは、実はそれが理由なんじゃないか、と。)

2019年4月19日金曜日

なぜ2月だけ日数が少ないのか?

 1ヶ月の日数は30日か31日が基本なのに、なぜか2月だけは28日。うるう年でも29日。なんだかバランスが悪いような気がしないか?
 1年365日(うるう年は366日)を12ヶ月に分けるのに、もっとバランス良い分け方がある。例えば、2月・4月・6月・8月・10月・12月を30日にして、1月・3月・5月・7月・9月を31日にして、11月についてはうるう年は31日、うるう年でなければ30日としても良いはずだ。
 現状のカレンダーの不自然さは2月だけ日数が少ないことだけではない。日数が30日の月と31日の月の並び順に規則性がないこともそうだ。どういうわけか、7月と8月のところだけ31日の月が続いている。なぜなんだろう? そこには何か深い訳があるのだろうか?

 さて、なぜ2月だけ日数が少ないのか? なぜ日数が30日の月と31日の月の並び順が不規則なのか?
 では、ここで正解を発表しよう。正解は、
春休み(3月終~4月初)、夏休み(7月終~8月末)、冬休み(12月終~1月初)が少しでも長くなるように。
そう考えると、とても良い配置だよね。

2019年4月15日月曜日

かまどの科学

 今日の話は「かまどの科学」、英語でいうと " Science of Fire ! " だ(… と、林間学校でボクは話し始めた。野外でのカレー作りの説明です。それを再現)。ポイントは3つ。

 まず、1点目。火は熱いぞ。ところで「やけどに気をつけよう」なんてことを言いたいんじゃない。そんな野暮なことは僕は言わない。やけどしないようにするのは簡単だ。火をおこさなければいい。でも、おこさないわけにいかないでしょ。
 じゃぁ、やけどする危険を冒してまで、なぜ火をおこすんだろう? 答えは、火が熱いからだ。だから、ご飯が炊けて、カレーが作れる。人間は火を使うようになって、おかげで食材リストが圧倒的に増えたんだよね。火を使う以前は、食事のメニューはものすごく限られていたはずだ。
 考えてもみよ。生麦、生米を食えるか? まぁ生卵なら食えるけど、生麦、生米は食えんだろ。ところが、火にかけると食えるようになる。さて、生肉、生芋は食えるかな? 生ニンジンはどうだろ? それは、火をおこせなかった班が答えを出してくれるだろう。やけどするのは仕方ない。火は熱いから。

 続いて、2点目。火は上に広がる。当たり前だなんて言っちゃいけない。かまどに火をつけるには、これは重要なポイントだ。なぜなら、火が上に上がるのか下に下がるのかによって、火のつけ方が変わってくるからだ。
 火が下に下がるのなら、木の上に火を乗せればよい。その場合、火は下へ下へと沈み込むように広がって、上の木から下の木へと順に燃え移っていくだろう。
 どころが実際はそうじゃない。火は下に下がるのではなくて、上に上がるのだ。だとすれば、最初に火をつけるべき場所も変わってくる。

 そして、3点目。なかなか火はつかない。これも大事なポイントだ。だってなかなかつかないんだもん。
 いや、すぐにつく物もある。紙だ。けれども、紙はすぐに燃え尽きて、あっという間に消えてしまう。それでは調理には役に立たない。
 薪であれば火は長もちするから、一回ついてしまえば、あとは適当なタイミングで薪を追加するだけで火は燃え続ける。けれども、最初の火がなかなかつかないのだ。
 簡単に火がつくけれどもすぐに燃え尽きてしまう紙と、なかなか火がつかないけれども一回つけば当分燃え続ける薪。そしてその間に、小枝がある。つまり、火のつき易さは「紙>小枝>薪」、長もち度合いは「紙<小枝<薪」である。最終的には薪に火をつけたいわけだが、いきなり薪に火をつけようとしても無理だ。そうなると、火をつける順番を工夫しなければならないということになる。

 もう一度言おう。火は熱いぞ。そこに、なぜかまどに火をつけるのかの訳がある。そして、火は上に広がる。でも、なかなかつかない。そこに、どうすればかまどに火をつけられるかのノウハウが詰まっている。Good Luck !

かまど大賞 @林間学校

◯ 班

 林間学校で野外での火おこしにおいて、君らの班は最も手こずり、時間がかかり、火が点いたのはだんトツのビリでした。そしてその過程で多くの失敗と回り道をして、結果としてたくさんのことを経験し、それを全員で共有し、どの班よりも多くのことを学びました。その成果を讃え、ここに(僕の独断で)「かまど大賞」を贈ります。

 おめでとう! パチパチ

2019年4月7日日曜日

実物元素周期表

 先日、多摩六都科学館 に行ってきた。東京都多摩地区の小平市、東村山市、清瀬市、東久留米市、西東京市(旧田無市と旧保谷市が合併)の5つの市が共同で運用する施設で、元々は6つの市だったから、だから「六都」と言うらしい。
 目玉の「プラネタリウム」を見て、あるイベントに参加して、そして一般展示を見てきた。今日は一般展示の中から「実物元素周期表」という展示を紹介しよう。


 その名の通り、元素の周期表と同じレイアウトに実物を配置したものである。写真左が周期表の全体、写真右がその一部。元素番号 5,6,7 と 13,14,15 が並んだ一角である。炭素 C の棚には炭とダイヤモンドと鉛筆の芯が入っている。アルミニウム Al の棚には1円玉、ケイ素 Si の棚にはお弁当箱に入っている容器など、身の回りにあるものが並んでいる。
 わかりやすくてなかなか楽しい。学校の文化祭のネタにも使える。大学受験生も気分転換と復習と新しい知識の獲得を兼ねて、一度行ってみるといい。

2019年4月3日水曜日

☆ 宮沢賢治の童話にみる、ニッポンの心

  ◇ 宮沢賢治の童話にみる、森と人との関係       狼森と笊森、盗森
  ◇     〃      動物と人との関係        氷河鼠の毛皮
  ◇     〃      個性・差別化・あるがまま   どんぐりと山猫
  ◇     〃      ニッポンの神様         土神ときつね
  ◇ 宮沢賢治も知っていた、二酸化炭素の温室効果  グスコーブドリの伝記

  ○ 雨にも負けずのアンバランス               雨ニモマケズ

 自分で言うのもなんですが、彼と僕はちょっと似ているような気がしてきました。彼が生きた年数の倍くらいを僕はたぶん生きるので、彼の半分くらいの仕事ができたらなぁと思っているところです。

宮沢賢治の童話にみる、ニッポンの神様

 日本人にとっては、貧乏神もたたり神も神様である。神様がみんな高貴だとは限らない。人間以上に人間っぽい神様もいたりする。童話「土神ときつね」にはそんな神様が登場する。
 土神は沼地のようなところに住んでいる神様である。おそらくは汚らしい恰好をして、あまり今風な感じはしない。祠を訪れる人も少なく、祠は荒れている様子である。土神はときに人をそこに誘い込んで、意地悪をするようだ。
 それと対照的なのが、きつねである。きつねはおしゃれで物知りである。多少見栄っ張りなところとお調子者のところはあるが、今風の好青年だといえよう。
 一本木の野原の、北のはずれに、少し小高く盛りあがった所がありました。いのころぐさがいっぱいに生え、そのまん中には一本の奇麗な女の樺の木がありました。・・・(略)・・・
 この木に二人の友達がありました。一人は丁度五百歩ばかり離れたぐちゃぐちゃの谷地の中に住んでいる土神で一人はいつも野原の南の方からやって来る茶いろの狐だったのです。
土神はきつねにやきもちを焼いているようです。そしてある日、あろうことか、土神はきつねを殺してしまうのです。
秋の日のことです。土神は上機嫌で樺の木のところに来ました。
 そこにきつねがやってきました。樺の木と土神ときつねは少し話をして、きつねは戻っていきました。
 土神はしばらくの間ただぼんやりと狐を見送って立っていましたがふと狐の赤革の靴のキラッと草に光るのにびっくりして我に返ったと思いましたら俄かに頭がぐらっとしました。・・・(略)・・・
 土神はいきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四五へん踏みつけました。
 それからいきなり狐の穴の中にとび込んで行きました。中はがらんとして暗くただ赤土が奇麗に堅められているばかりでした。土神は大きく口をまげてあけながら少し変な気がして外へ出て来ました。
 それからぐったり横になっている狐の屍骸のレーンコートのかくしの中に手を入れて見ました。そのかくしの中には茶いろなかもがやの穂が二本はいって居ました。土神はさっきからあいていた口をそのまままるで途方もない声で泣き出しました。
 その泪は雨のように狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑ったようになって死んで居たのです。
ここでお話は終わります。今時の倫理観からすると、土神のやったことは無茶苦茶といえるだろう。三流ドラマのストーリーあるいは三面記事的な事件ととらえれば、どこにでも転がってる話といえなくもない。
 でも、意外と暗くないのである。悪い気はしないのである。いや、なんか引っかかるといったらいいだろうか。なぜなんだろう。


宮沢賢治の童話にみる、個性・差別化・あるがまま

 森のどんぐりたちが裁判で争っています。一郎が、裁判長の山猫に呼ばれて、意見を求められました。宮沢賢治の童話「どんぐりと山猫」から、引用します。

   ・・・(略)・・・
空が青くすみわたり、どんぐりはぴかぴかしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山猫が、すこし心配そうに、それでもむりに威張って言いますと、どんぐりどもは口々に叫びました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。」
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。」
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。」
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。」
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」
   ・・・(略)・・・
山猫が一郎にそっと申しました。
「このとおりです。どうしたらいいでしょう。」一郎はわらってこたえました。

 どんぐりたちは、差別化を望み、個性を主張し合い、お互いに競争しているようです。
 ここで、一郎が判決案を出します。山猫はどんぐりたちにその通りに申し渡して、争いはすぐに収まりました。
 さて、出された判決はどんなものだったのでしょう。みなさんも、ちょっと考えてみてください。
 引用を続けます。

「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」山猫はなるほどというふうにうなずいて、それからいかにも気取って、繻子のきものの胸を開いて、黄いろの陣羽織をちょっと出してどんぐりどもに申しわたしました。
「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」
どんぐりは、しいんとしてしまいました。それはそれはしいんとして、堅まってしまいました。
   ・・・(略)・・・

 名判決だと思いませんか? 毎年繰り広げられて今年も三日間ももめていた争いをものの1分半で解決したのですから、さすがに名判決だと言えるでしょう。おそらくこの判決は、多くの読者にとって予想外のものだったんじゃないでしょうか。そして、その判決に、心が躍るような楽しさ・嬉しさを感じたんじゃないでしょうか。
 判決は「いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい」でした。
 さて、この判決の真意は何でしょう。結局、どのどんぐりがえらいのでしょうか。
 またこの判決を聞いて、どんぐりたちはなぜ「しいんとして、堅まってしまった」のでしょうか。どんぐりたちは、そのとき何を考えていたのでしょうか。

 では、【問題】です。



 下のA,B,Cからあなたが判決の真意と考えるものにもっとも近いものを選んで、なぜそのように考えるのかを説明しなさい。その際、判決を聞いてしいんと堅まりながらどんぐりたちは「何を考えていたのか」についてのあなたの考えを含めること。
◇ どのどんぐりも全部 同じ。
◇ どのどんぐりも全部 えらい。
◇ どのどんぐりも全部 ばか。
頭で理屈で考えるのではなく、あなたの心の声を聞いてみてください。判決を聞いたときの驚き・感心・ウキウキ感を思い出せば、答えが1つに絞れるのではないでしょうか。
(どっちつかずの立場でなく、どれか1つに絞って、一貫性のある説明をしてください)



《文章例》
<Aプラン>
 「どんぐりの背比べ」という言葉があるように、「どのどんぐりも全部同じ」というのが、判決の趣旨だと思う。要するに「人と比べたり、人の評価を気にしたりして一喜一憂するのはつまらないことだから、気にするな」と言いたいんだと思う。
 判決を聞いてどんぐりたちは「自分たちがつまらないことにこだわっていた」ことに気がついたんだろう。また自分にとっては大事に思えることでも「他人から見たらどうでもいいこと」だったりする。それらに気がついて、どんぐりたちは反省したんだと思う。

<Bプラン>
 どんぐりたちは争っていたというより、「個としての自分、自分の存在意義」を自ら認め、また他人にも認めてほしかったのだと思う。そして判決は「一見ヘンに見えるどんぐりだって、いちばんえらいんだ」ということだから、つまりは「どのどんぐりも全部えらい」ということになる。
 その見方はどんぐりたちには新しい見方だった。それはやがてどんぐりたちに定着していくんだろうけれど、すぐに取り込むことはできない。だから、どんぐりたちは堅まりながらその意味をかみしめているんだと思う。

<Cプラン>
 判決は「外見だけを問題にして、『自分がいちばんえらい』などと考えるのはバカげたことだ」という意味だと思う。言い換えると、「争うこと自体がバカげたことだ」というのが判決の真意だと思う。つまり、「どのどんぐりも全部ばか」ということである。
 またこの判決に従えば、「いちばんえらい」と認められたどんぐりは「ばかで、めちゃくちゃで、・・・」ということになる。「自分がいちばんえらい」と主張することは、それを認めることになる。そう思われたくないから、どんぐりたちは黙ったんだろうと思う。

《解説》
 ことわざ「どんぐりの背比べ」はAプラン、SMAPの「世界に一つだけの花♪」はBプラン、Cプランは「ケンカ両成敗」、そんなところでしょうか。
 文学はいろんな読み方ができるものです。この設問もどれが正解ということはありません。筋が通っていて説得力があれば、なんでもいいんです。
 ただこの設問に答える上で大事なことは「立ち位置を決めたら、ブレないこと」です。立ち位置を決める前のフラフラした状態のまま書き始めたのでは、一貫性のあるまとまった文章は書けないでしょう。


宮沢賢治の童話にみる、動物と人との関係

 宮沢賢治の童話に「氷河鼠(ねずみ)の毛皮」という作品があります。冬の寒い日のベーリング(北極圏)行きの列車の中でのお話です。主な登場人物は3人です。
タイチ:高級な毛皮を身にまとい、防寒対策は万全。これから動物の毛皮を取りに行く。
赤ひげ:動物たちのスパイとして列車に乗り込んでいる。狐と思われる。
船乗り:たまたま乗り合わせていた乗客。事件を解決に導く。
さて、物語の最終章。列車乗っ取り事件が起きます。
 突然列車が止まり、ピストルを持った赤ひげに続いて、熊と思しき人たちが列車に乗り込んできました。そしてタイチを捕えて、吹雪の車外へ連れ出そうとします。
 その瞬間、船乗りが赤ひげのピストルを奪い、赤ひげを捕虜にして言いました。以下、引用します。
「おい、熊ども。きさまらのしたことは尤もだ。けれどもなおれたちだって仕方ない。生きているにはきものも着なけあいけないんだ。おまえたちが魚をとるようなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるように云うから今度はゆるして呉れ。ちょっと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから」
「わかったよ。すぐ動かすよ」外で熊どもが叫びました。
  ・・・(略)・・・
「さあけがをしないように降りるんだ」船乗りが云いました。
赤ひげは笑ってちょっと船乗りの手を握って飛び降りました。
「人間は仕方なく動物を殺している。動物たちがそれに抗議するのは正当だ。だから取り過ぎないようにする」。身も蓋もなく言ってしまえば、これが動物たちと人間との合意内容です。赤ひげはそれに満足しています。
 ここがポイントだと思うのですが、赤ひげは去る間際に船乗りと握手していますね。言い方を換えれば、人間は動物に感謝しながら、その体を自分たちのために使わせてもらうということでしょう。
 太古の昔から人間は、そんな感覚を持ち続けてきたのだろうと思います。


宮沢賢治の童話にみる、森と人との関係

 宮沢賢治の童話に「狼森(オイノもり)と笊森(ざるもり)、盗森(ぬすともり)」という作品があります。引用しながら、紹介します。

 まずは、男たちが森に囲まれた野原を、開墾しようとしていた場面です。そこで四人の男たちは、てんでにすきな方へ向いて、声を揃えて叫びました。
「ここへ畑起こしてもいいかあ。」
「いいぞお。」 森が一斉にこたえました。
みんなは又叫びました。
「ここに家建ててもいいかあ。」
「ようし。」森は一斉にこたえました。
みんなはまた声をそろえてたずねました。
「ここで火たいてもいいかあ。」
「いいぞお。」森は一ぺんにこたえました。
みんなはまた叫びました。
「すこし木貰ってもいいかあ。」
「ようし。」森は一斉にこたえました。
ところで、人は森から一方的に恩恵を受けるのではありません。森が人におねだりすることもあるようです。
「おらさも粟餅持って来て呉(け)ろよ。」と叫んでくるりと向こうを向いて、
手で頭をかくして、森のもっと奥の方へ走って行きました。
人が収穫した粟を、森が盗んだこともあったようです。
岩手山はしずかに云いました。
「・・・(中略)・・・ 盗森は、じぶんで粟餅をこさえて見たくてたまらなかったのだ。それで粟も盗んで来たのだ。はっはっはっ。」
こうして、森と人は友達になっていきました。

 「自然を守れ」というのとは、ちょっと違う。「自然と人間の共生」というのとも、ちょっと違う。
日本人の心の中にある 森と人との関係 がよく表れている作品だと思います。


宮沢賢治も知っていた、二酸化炭素の温室効果

 宮沢賢治の童話「グスコーブドリの伝記」の最後の部分です。1932年(昭和7年)の作品です。
・・・
 そしてちょうとブドリが二十七の年でした。どうもあの恐ろしい寒い気候がまた来るような模様でした。・・・
 ところが六月もはじめになって、まだ黄いろなオリザの苗や、芽を出さない樹を見ますと、ブドリはもう居ても立ってもいられませんでした。・・・ある晩ブドリは、クーボー大博士のうちを訪ねました。
「先生、気層のなかに炭酸ガスが増えてくれば暖かくなるのですか。」
「それはなるだろう。地球ができてからいままでの気温は、大抵空気中の炭酸ガスの量できまっていたと云われているくらいだからね。」
「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴くでしょうか。」
「それは僕も計算した。・・・地球ぜんたいを平均で五度くらい温にするだろうと思う。」
「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしてもにげられないのでね。」
・・・
 そしてその次の日、イーハトーブの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅いろになったのを見ました。けれどもそれから三、四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋にはほぼ普通の作柄になりました。・・・その冬を暖かいたべものと、明るい薪で暮らすことができたのでした。
「グスコーブドリの伝記」(宮沢賢治・作)より。(「・・・」の部分は省略しました)


2019年3月14日木曜日

☆ なぜ人間は走るのが遅いのか?

 人間は実は走るのがとても遅いのです。ウサイン・ボルトだってチワワに勝てないんですよ。もちろんスズメにもサンマにも負けます。大きさ比でいったら、間違いなくハエよりアリより遅いでしょう。まず、その訳を解明します。

  ◇ なぜ人間は走るのが遅いのか 
  ◇ 競馬と陸上競技の違い 
  ◇ 投げる動物 

 では、人間が得意なスポーツは何なのでしょう。人間ならではの動きとはどんなものなのでしょう。そう考えたときに思い至るのは、投げることです。それこそが、人間と他の動物との最も大きな違いなのではないでしょうか。


なぜ人間は走るのが遅いのか?

 子猫だって子犬だって、人間よりずっと速く走る。あんなにちっちゃいヤツに、人間は勝てないのだ。嘘だと思うなら、試しに追いかけてみればいい。絶対に追いつかないから。
 人間様はな、スズメよりサンマより遅いんだぞ。身長比でいったら、間違いなくハエよりアリより遅い。さて、なぜ人間はこんなにも遅いのか、それが今日のテーマである。

動物であれ乗り物であれ、人間以外のものは、頭の方向に進む。犬は頭を前にしてその方向に進む。スズメもサンマも、ハエもアリも同じである。科学的に言えば、そういうことだ。
 そのことは「体の長い方向に、あるいは尖った方向に進む」と言い換えてもよい。槍や弓矢はもちろん、ロケットや船など乗り物もすべて長軸方向に進むのだ。それが動く物体の道理である。
 人間だけである。「頭の方向=長軸方向」から角度にして 90 度ずれた方向に進むのは。人間は直立歩行をするようになり、手を移動以外の目的で使うようになり、頭の方向に進めなくなってしまった。そして、スピードを失った。これは運動力学的には当然の帰結であろう。
 ところで、カニはなぜ横に歩くのか? 理由はもう明らかだろう。横方向が最も長いからだ。ペンギンは陸ではよちよち歩くが、水に入った途端にスピードが上がる。その理由は簡単。頭の方向に進むからだ。氷の上を腹ばいになってツルンと滑りながら移動するときも同じである。カニもペンギンも、長い方向あるいは頭の方向に向けて進めば、人間よりよっぽど速い。
 もちろん人間だって、頭の方向に進めば速いに違いないのである。ところが、人間にはそれが出来ない。手が、移動手段として使い物にならないからである。そして、あろうことか、高さ・幅・奥行のうち、最も短い方向に進もうとする。だから、人間は走るのが遅いのである。

 さて、人間は自転車を発明した。自転車は野生の動きそのままに、長軸方向に進む。自転車のおかげで人間は、自分の体の大きさと自分の筋力に見合うスピードを回復した。
 自転車の良さは、野性味にある。自転車に乗って、体を前傾してスピードを出すと、ライオンになったような気分になる。


競馬と陸上競技の違い

 僕は最近、競馬が好きだ。「馬って速いなぁ、カッコいいなぁ」、そんなことを想いながら、時々テレビで競馬中継を見ている。お金は賭けない。僕は職業柄すぐに期待値計算をしてしまうから、そうなると絶対に馬券は買えない。馬券は買わないけれど、馬が走っているのを見るのが好きなのだ。「ウチの陸上部の部員も こうやって走ればきっと速い のに」、そんなことを想いながら見ている。
 そして見ながら、僕は競馬と陸上競技の違いを発見した。違いといえば「人が乗ってる、乗ってない」とか「お金を賭けてる、賭けてない」の違いもあるが、そんなことではない。走っている馬と人とに、もっと決定的な違いがあるのである。
 それは何かというと、馬はスタート地点で「これから何メートル走らされるのか」、走っている途中で「あと何メートル走ればいいのか」を知らないということだ。
 人は当然知っている。「自分が何メートル競走に出るのか」、「あと何メートルでゴールなのか」ということを。だから人はペース配分を考え、ゴール手前ではラストスパートをかけ、力を出し尽くしてゴールする。
 けれども馬は何も知らずに、何も考えずに走っているのだ。だから馬は力を出し切ってゴールすることもないし、倒れ込むようにゴールすることもない。だからこそ人が乗って馬を操るのだろうが、馬は疲れたり、嫌になったりしたら、きっと走るのを止めるのだろう。
 どうりで馬は、顔色一つ変えず、涼しい顔で走っている。人のようにぜいぜいはぁはぁしたりもしないのだろう。一着の馬もビリの馬も気持ちよさそうに走っている。一方、人はみんながみんな全力を出し尽くす。顔をゆがめ、息を切らし、へとへとになってゴールする。
 競馬の馬と陸上競技のランナーはこんなにも違うのである。そしてその違いは、自分が走る距離を知っているか知らないかに由来する。さて、バカなのは、馬だろうか、人だろうか。


投げる動物

ミカンをひと房ポォーンと上に投げて、落ちてきたところをお口でパクッ。「やめさない!」 by 妻。
   ・・・ ちゃんとキャッチしたのにぃ 。。。
食べ終わったミカンの皮をフワッと投げて、ゴミ箱にストン。「いいかげんにしなさい!」 by 妻。
   ・・・ しっかりゴミ箱に入ったのにぃ 。。。
「もー、子供みたいなことして ・・・ ってゆーか今どき、子供だってそんなお行儀の悪いことしないわよ!」 妻に怒られました。
そのとき、ハタと気がつきました。「そっか、今どきの子供はこれをやらないからダメなんだ」
 ミカンを上に投げるときの柔らかさ、微妙な力加減。ミカンが手を離れる感触に合わせて、すばやく動く頭。これらがうまく連動しないと、ミカンをキャッチできません。
 ミカンの皮をゴミ箱に投げ入れるときは、方向よりも力加減がポイントです。ゴミ箱に入れるのはあんがい難しい。放物線の軌道がゴミ箱のすぐ上を通過し、その位置で速度が大きく引力方向に向いていることが条件です。
 子供をスポーツ・クラブに入れても、スクールに通わせても、この柔らかさ、微妙な力加減は身につきません。それは日常生活の中で、あるいは遊びの中でこそ身につくものです。

 さて、他の動物と比べて、人間に特に秀でた能力はなんでしょうか。
 たとえば陸上競技の種目は、走る・跳ぶ・投げるの3種類に分けられます。走るのは100m走からマラソンまで距離は様々で、跳ぶのは走幅跳・三段跳・走高跳・棒高跳があり、投げるのは砲丸投・円盤投・やり投・ハンマー投があります。
 このうち走る競技については、前の記事に書いたように「人間ほど走るのが遅い動物はいない」わけで、跳ぶ競技にしても、人間が他の動物に比べてジャンプ力があるようには思えません。ネコもカエルも、大きさ比でいえば人間よりよっぽど高く遠くへ跳びます。トビウオやモモンガにいたっては、なおさらです。走ることと跳ぶことについては、人間は動物の中で最低レベルと言えるでしょう。
 では、人間ならではの運動能力とはなんでしょうか。そう考えたときに思い至るのは、投げることです。よくよく考えてみると、物を投げることのできる動物は、実は人間だけなのです。
 ところで、物を投げられると「何が良い」のかというと、要するに強いのです。物を投げずに戦うなら直接体をぶつけるしかありませんが、物を投げられるなら離れたところから攻撃できます。クマやマンモスなど取っ組み合ったら絶対に勝ち目のない相手でも、石を投げたり、やりを投げたりすれば勝ち目が出てきます。逆に言えば、ゴリラが石を握っていても、オオカミがやりをくわえていても、遠くにいるなら別に怖くありません。
 物を投げるということは、一種の遠隔操作みたいなものです。物を投げられれば、接触プレーを避けられます。その発展形が、ピストルでありミサイルです。
 速く走ることが人間らしさではありません。高く遠くに跳ぶことも 人間ならではのことではありません。むしろ投げることが、人間の証しなのです。陸上競技の種目でなくても、野球でもダーツでもいいのですが、遠くに正確に投げることが人間ならではの能力と言えるでしょう。

 ミカンを一房ポォーンと上に放り上げて、お口でパクッ。食べ終わったミカンの皮をヒュッーと投げて、ゴミ箱にストン。こんなことができるのも人間だけなのです。
 だから、妻のように「行儀が悪いから、やめなさい!」と言うのは間違っています、たぶん。むしろ子供にこれを奨励し、ときには大人がやって見せることが必要なのではないでしょうか。


☆ 子供といっしょに考える科学

 大人が普段忘れている自然な疑問を、子供はふと思い出させてくれたりします。子供が発した一言から、いろいろあれこれ考えて、ふと気づくこともあるものです。

  ◇ サルはそのうち人間になるのか? 
  ◇ 氷点下でも湖の水が凍らない訳 
  ◇ もし性別が3種類あったら? 

 似たような目線・発想をする者同士より、違った目線・発想をする人と一緒に考える方が面白い。子供は絶好のパートナーです。