2020年1月31日金曜日

疑問は解答の可能性である

◇ 直感 = 瞬時に下した総合的判断
 自分の中には、これまでの無数の経験が蓄積している。そのうち意識されているものはホンの一部にすぎない。ほとんどは無意識のまま存在している。
 何かの折に、何かに反応して、それが外に現れる。たくさんのものが結びついて、瞬時に現れ出る。それが直感である。
 直感とはたんなる感想ではない。それは無意識が「瞬時に下した総合的判断」である。

◇ 疑問 = 無意識が発するシグナル
 「あれっ?」と思ったとき、実は何かに気づいている。それをはっきりと認識できていなくても。
 「何かおかしいぞ」と思ったとき、実は何かをつかんでいる。それを明確に表現することはできなくても。
 自分の中に無限に蓄積している無意識が、何かをキャッチして発するシグナル、それが疑問である。あるいは悩み・違和感といってもいい。それらすべて「何かをキャッチした」ことの現れである。

◇ 疑問 = 解答のきっかけ・可能性
 疑問があるから答えがある。疑問を持つことは、答えに行き着く(ちょっと/だいぶ)手前にいるということ。
 疑問のないところに答えはない。疑問を持たないことは(その時点で)それに対して答える能力がないってこと。
 わかっているから疑問を持たないのではない。わかろうとする意思・能力がないから疑問を持たないのだ。
 わからないから疑問を持つのではない。意識できないながらも「何かがわかった」から、疑問を持ったのである。

2020年1月29日水曜日

変わり続けるということ

 これだけ価値観や選択肢が多様な時代にあって「ひとつに決めろ」と言われても、ひとつに決まるわけがない。これだけ人生が長くなって変化が早い時代にあって「ひとつのことを極めろ」と言われても、同じことをやり続けられるわけがない。
 では、どうするか。同時にいくつかのことをやる。やることを時々変える。これしかないんじゃなかろうか。
 もちろん何でもできるわけじゃない。限られた条件の中でやれることは限られるし、そもそも出来ないものはできない。だから結局は、できることを、できる範囲でやるしかない。
 さて、何ができるか。まず、できることは、できる範囲を「広げる」ことだ。もうひとつ、できることは、できる程度を「深める」ことだ。これに尽きるんじゃないだろうか。
 いろんなところに首を突っ込んで、なにはともあれ試してみる。時にはこだわってのめり込み、時にはあっさりと他に移る。何をやってもうまくいく保証はない。何をやってもなんとかなる可能性はある。だから変わり続ける。
 そのために必要なことは「なにをやるか」というアンテナを常に立てておくこと。アンテナは自分の外と自分の内の双方向を向いている。そして、いつももぞもぞ動いている。何かを始めれば、きっと次につながる。そうやって生きていこう。

2020年1月26日日曜日

親・偽・愛


木の上で立って見るのが、親。  
人の為と思って放つ言葉が、偽り。
心を受け入れるのが、愛。    


「あなたのためよ」なんてごまかさないで、
相手の言葉を黙って聞いて、       
ちょっと離れたところで見ていればいいの。

親にとってはしょせん他人事、子供本人にとっての方がよっぽど切実だから。
親の古いアンテナより、子供の新しいアンテナの方がよっぽど性能良いから。
子供に口出しするより、親は自分の成長図れよ。その姿から子は学ぶ。   

映画「いのちの食べかた」

(2008年冬)
映画「いのちの食べかた」を見てきました。食材の生産現場を収録したドキュメンタリー映画です。
セリフなし、ナレーションなし、文字による説明もなし。生産現場の映像が淡々と流れます。
登場する食材は、穀物・野菜・肉類など。驚いたのは「ここまで機械化・自動化されているのか」ということ。
ベルトコンベアの上をひよこが流れ、不良品はゴミ箱へ。親鳥は吸引機で吸い込まれて、加工場へ。
ひまわり畑に飛行機で農薬散布する映像などは、とてもきれいでさえあります。
農場従業員が昼食を取っている映像もまた、「いのちの食べかた」の一風景。

2020年1月19日日曜日

☆ 心模様をグラフにしてみよう

いろんなものをグラフにしてみました。心模様、生命力、稼ぎ方。
◇ 損得気分曲線 
◇ 生命力曲線 
◇ アルバイトと会社員と自由業の稼ぎ方の違い 
小学校で習ったグラフは、いくつになっても役立ちます。

生命力曲線 と 高齢者医療


 おおむね、こんな(↑)感じなんじゃなかろうか。生命力が衰えて、いろんな病気になって、放っておけば安らかに死ねるものを、医療を施すことによって、命を長らえる代わりに、本人は苦しみ、家族は介護に追われ、国家は財政を逼迫させる。

◇ 1000万円を高齢者医療に使うか、子供の学費に使うか
 高齢者医療にかかる費用を1000万円としよう。健康保険負担分や介護のための労働を勘案すれば、ゆうにそれくらいにはなるだろう。また、子供を大学に入れて卒業までにかかる費用も同じくらいだとしよう。その両方を支払ってまだまだ余裕がある家庭もあるだろうし、その片方も払えない家庭もあるだろうが、ここでは片方なら払えるが、両方は払えないという経済レベルを想定する(割と平均的な家庭だと思うのだが、どうだろう)。
 さて、あなたなら1000万円をどちらの費用に充てるか? 1000万円を年老いた親が4年間生きながらえるために使うか、それとも子供が大学に通う4年分の学費に充てるか。あるいは、あなた自身が病を抱える高齢者だとして、そのお金を自分のために使うことを望むか、それとも孫のために使うことを望むか。

◇ 「生まれ変わり」という物語
 生命には「自分を修復する能力」と「新しい生命を生み出す能力」がある。そして、どちらを採用するかは、コストの問題である。「古いものを修復して使い続ける」方が安上がりなうちはそうするが、そうするのは割に合わないと見做せば「古いものを放棄して新しいものに作り変える」。だから、生命には寿命があって、子孫を残すのである。
 コストを無視してまで「修復して使い続けよう」とする動機は、生命には無い。でも、古い生命が死ぬ代わりに、子や孫に命が引き継がれる。そういう形で、生命は生き続ける。そしてまた、自分が死んでも、きっと生まれ変わるのだろう。そういう楽しい物語もある。

◇ 65才以上の高齢者に対する医療を禁止する法案
 法律でこう決めちゃったらどうだろう。これが無茶だというなら、百歩譲って「65才以上の高齢者に対する医療に100%の税を課す」とか。それでもダメだというなら、千歩譲って「65才以上の高齢者に対する医療を全額自己負担とする」でもよい。最後の案でも、高齢者医療の件数は今よりずっと少なくなるだろう。そしてそうなれば、安らかに死ねる老人が増えて、家族は未来のことに力を注ぐことが出来て、国家財政も安定する。良いことづくめである。
 生命力旺盛なら100才でも200才でも生きてくれたら良いと思うが、やがて必ず衰えるはずなので、そうなったらスムーズに引き継ぐことをむしろ積極的に考えた方がいいんじゃなかろうか。


《 過去の記事 》
◇ オレが死んだらライオンのエサにしてくれ
◇ 致死率100%の病
◇ 死という課題

2020年1月17日金曜日