2019年11月27日水曜日

天使か悪魔か妖精か(1)

 天使はいつも本当のことを言う。悪魔はいつもウソをつく。妖精は気まぐれで、本当のことを言うこともあれば、ウソをつくこともある。
 目の前に天使か悪魔か妖精がいる。彼が「私は天使ではありません」と言った。彼は何者か?



  (ⅰ)彼が天使だとすると、彼がウソをついていることになるので、矛盾する。

  (ⅱ)彼が悪魔だとすると、彼が本当のことを言っていることになるので、矛盾する。

  (ⅲ)彼が妖精だとすると、彼が本当のことを言っていることになるが、矛盾しない。

以上から、彼は  妖精  である。




 上の設定の最後の部分を「彼が「私は悪魔です」と言った」と変えても問題は成立する。
 その場合は、

  (ⅰ)彼が天使だとすると、彼がウソをついていることになるので、矛盾する。

  (ⅱ)彼が悪魔だとすると、彼が本当のことを言っていることになるので、矛盾する。

  (ⅲ)彼が妖精だとすると、彼がウソをついていることになるが、矛盾しない。

以上から、やっぱり彼は  妖精  だということになる。

2019年11月24日日曜日

文脈を取れない人

 知り合いがSNSに投稿した 文章 に私がコメントした。

 学歴はあっても、思考力のない人、文脈を取れない人って実は多いんですよ。そういう人は、人に何か言われてもよく分からないから、先回りして人の話を聞こうとしない。説明や事実より、思い込みが先行する。新しいことに出くわしたときに、想像力を働かせて取り込もうとするより、視野を狭めて見なかったことにする、もしくは排除しようとする。
 その人が悪い人だからってことじゃない。能力が無いだけ。

 知り合いがコメントを返した。それに対して私が再びコメントした。

> (相手に読んで聞かせたいくらいです。)

 文脈を取れない人、人の話を聞こうとしない人、新しいものを取り込もうとしない人に対しては、そのやり方は不毛でしょうね。もしかしたら、彼は別の方法であなたを攻撃するかもしれませんよ。彼が思考力のない人、考える習慣のない人だったならば、彼にはそれくらいしか打つ手がないのです。
 では、どうするか。私が考えるベターなやり方は「彼がそういう人であることを、他の人と共有する」ことです。他の人もたぶん薄々気づいていますよ。それがみんなの共通認識になれば、とりあえず問題解決です。

 知り合いにコメントしたのはここまでですが、続けます。

 さて、「文脈を取れない」人は「ほとんど本を読まない人」の中に一定の割合でいるように思うのです。本を読むことは、人の話を聞くことであり、新しいものを取り込むことであり、それを基にして自分で考えることです。ですから、本を読む習慣がある人には、人の話を聞く姿勢、新しいものを取り込む意欲、自分で考える習慣が自然とあるのです。もちろん本を読む習慣がある人には「文脈を読む力」も、程度の差はあれ、一定程度は身についています。
 でも、世の中には「ほとんど本を読まない」人がたくさんいるわけで、そういう人が全員とは言いませんが、「文脈を取れず、人の話を聞かず、考えようともしない人」は「ほとんど本を読まない人」の中にいるのです。その人に学歴があっても、社会的地位があっても、です。
 相手のことを「話が通じない人だなぁ」と思ったとき、きちんと説明すれば良いとは限りません。相手が「文脈を取れない人」だった場合には、おそらく徒労に終わります。むしろ逆効果の場合もあるでしょう。
 では、どうすればいいか。相手のことを「話が通じない人だなぁ」と思ったとき、そもそも彼には「文脈を理解する能力が無いのではないか」と疑ってみましょう。そしてその際の判断材料の1つが、その人に「本を読む習慣があるかどうか」です。

 ところで、スマホを長時間眺めている人が「文章を読んで、文脈を理解している」とは限りません。むしろ「スクロールしながら単語を拾っている」だけという場合も多いでしょう。そのような読み方が一概に悪いとは思いませんが、「文脈を取れない人」でも「単語の拾い読み」はできるわけです。
 そしてそういう人と議論しようとすると、揚げ足取りのような反応が返ってくるでしょう。というのは、文脈を理解できなくても「単語に反応する」ことは彼にもできるわけです。本人に悪気はないのでしょうけれど、彼にできる精一杯がそれだから、仕方がないのです。
 また、「文脈を読む」ことと「空気を読む」ことは全く別物です。と言うより「文脈を取れない人」が、その代わりに手がかりとするのが「空気」なのです。だから「文脈を取れない人」はむしろ「空気を読む」ことに長けていたりします。

 「話が通じない人」は、職場にもネット上にもたくさんいます。でも、彼らが悪い人というわけじゃない。多くの場合、その原因は「文脈を取れない」ことにあるのだろうと私は思います。
 では、「文脈を取れない人」はどこにいるか。本を読む習慣がある人の中にそういう人がいるとは私には考えにくいのです。本を読むことは「人の話を聞くこと・新しいものを取り込むこと・それを基にして自分で考えること」ですから、本を読む習慣がある人には「文脈を読む力」が身についていると同時に、前提として「人の話を聞く姿勢・新しいものを取り込む意欲・自分で考える習慣」が当然あるはずなのです。そう考えたときに、「話が通じない人」は主に「本を読まない」人の中にいるのだろうと私は考えざるを得ないのです。
 読書、大事です。

2019年11月12日火曜日

自然数の和 と 奇数の和


右図より
1=12
1+3=22
1+3+5=32
1+3+5+7=42
  :
1+3+5+…+(2n-1)=n2 …(奇数の和)
また、①の左辺の1つ1つに1を足すと、
2+4+6+…+2n=n2+n …(偶数の和)
さらに両辺を2で割ると、
1+2+3+…+n=(n2+n)/2 …(自然数の和)



もしくは、

右図より
1+2+3+…+n=(n2+n)/2 … ①(自然数の和)
①の n を 2n とすると、
1+2+3+…+2n=2n2+n … ②
①×2 より
2+4+6+…+2n=n2+n … ③(偶数の和)
②−③ より
1+3+5+…+(2n-1)=n2 …(奇数の和)

2019年11月11日月曜日

私はあなたをiしています。

次の文章を読んで、下の問いに答えなさい。
リアルな世界にあいは無い。とてもシンプルな世界だ。
でも、そこにあいを持ち込むと、とたんに話がややこしくなる。
虚数(Imaginary number)とは、その名の通り「ウソの数」。 
その頭文字をとって、虚数単位をiで表す。i2 =[ア]となる。
でも、こんなことは実際にはあり得ない。
そう、iは実数(Real number)ではない。
実数と虚数をあわせて、複素数(Complex number)という。 
君たちはこれまで、あいのないリアルな世界で生きてきた。
けれども 君たちは、あいを知った。
そして、世界の見え方が変わるだろう。それがあいの力である。
あいはウソっぱちなんだけれども、そこから新しい世界が広がる。

あいはコンプレックスの中にある。
(1)  文中の[ア]に適当な数を入れなさい。

(2)  上で出てきた次の3つの文を表すのに最も適切な数学記号を下の[選択肢]から選びなさい。
A リアルな世界にあいは無い
B あいなんてウソっぱちだ
C あいはコンプレックスの中にある
[選択肢] イ i ∊ R  ウ i ∉ R  エ i ∊ I  オ i ∉ I  カ i ∊ C  キ i ∉ C
      ただし、R は実数の集合、I は虚数の集合、C は複素数の集合を表す。



 変な問題だとお思いでしょうが、
(1) ア -1
(2) A   B   C 
《答え》はこれしかないでしょう。

イベント「数学全史」に参加してきました

 タカタ先生主演、ムラちゃん主催のイベント「数学全史」(→ https://peatix.com/event/1330404 )に参加してきました。1日に50分×6コマのほとんど学校の授業と同じようなスケジュールで行われたイベントです。
 僕は今日は一観客のはずだったのですが、結局3回もしゃしゃり出てしまいました。(でもそれを許容してくれるような場だったと勝手に理解しています)
 1つ目は、タカタ先生のちょっとした間違いを指摘しちゃいました。実は以前に勤務校で定期試験に出した問題(→ https://omori55.blogspot.com/2019/03/blog-post_148.html )と同じだったものですから、つい。
 2つ目はムラちゃんの話に「平均寿命」の話が出てきたものですから、それに便乗して「寿命の平均値と中央値と最頻値」(→ https://omori55.blogspot.com/2019/11/2018.html )について飛び込みで授業しちゃいました。
 3つ目は、タカタ先生が講演の最中に突然僕に話を振ってきたので、それに応える形で説明(→ https://omori55.blogspot.com/2019/11/blog-post_12.html )しました。

 イベントが終わってから数人で食事に行って、その中で「直交座標系シャワー と 極座標系シャワー」(→ https://omori55.blogspot.com/2019/04/blog-post_40.html )の話やら「紙に開けた円形の穴にそれより大きな円板を通す」(→ https://omori55.blogspot.com/2019/03/blog-post_855.html )話やら「福島第一原発に行ってきた」(→ https://omori55.blogspot.com/2019/09/blog-post_6.html )話やらをしました。
 興味がおありでしたら、詳しくは上記リンクをご覧ください。

講習「論理式とゲーム理論の目線で社会を見る」

 冬休みに高校1年生を対象に「論理式とゲーム理論の目線で社会を見る」というタイトルで講習を開く。内容を紹介する文章を作った。
 講習の前半3日間では「論理式」と「ゲーム理論」をやります。これは「いろいろな社会現象を数でとらえて、数で判断する練習」です。
 講習後半3日間では、その2つを含め、さらに広い範囲で問題演習をやります。大学入試の数学・小論文の過去問も含みます。ですから計算問題だけでなく、記述問題・論述問題もあります。内容としては、たとえば「統計」や、社会現象・経済現象をシンプルにモデル化して数式でシミュレーションするようなものなど。ネット社会の仕組みや経済学的なものの見方がつかめるでしょう。
 実は慶応大学の入試にこの手の問題がよく出ます。経済学部・SFCの数学でもしばしば登場しますが、典型は商学部の小論文です。ながぁい問題文中に数式が出てきて、前半の設問で計算して値を求め、後半で論述問題に答える形式のものが多いです。
 高度な数学は使いません。予習・復習も要りません。6日間×2時間の講習時間内に完結します。夏の講習と違って、この講習ではガッチリ説明します。慶応大学の文系学部を受験する可能性がある人はもちろん、高校数学が実社会のどこでどのように使われているかに興味がある人、理系に進む予定の人も歓迎します。
多くの生徒たちが受講してくれることを期待している。夏休みに高校1年生を対象に実施した講習「人工知能時代の確率・統計 with エクセル」の紹介文は こちら です。

大人の相対的貧困率(2018年)

 (図1)は厚生労働省のサイトで公表している「世帯の所得の分布」(2018年)のグラフです。ただし、一部、文字を伏せているところがあります。


 (図1)の(ア)と(イ)には「平均値」と「中央値」のどちらかが入ります。さて、(ア)と(イ)のどちらが「平均値」でしょうか、どちらが「中央値」でしょうか。また、「最頻値」はいくらでしょうか。

 まず一番わかりやすいのは「最頻値」でしょう。値が最も多くなるところ、すなわち棒の高さが最も高いところ、この場合は「100万円〜200万円」と「200万円〜300万円」がそれに当たります。数学の教科書的には、その幅の真ん中の値をとって、最頻値は「200万円」となります。
 次に「平均値」と「中央値」について考えてみましょう。グラフに各所得区分ごとの割合が書いてありますから、上から順にもしくは下から順に足していけば、中央値がおよそわかります、平均値については2000万円以上が一括りになっているために、グラフから平均値を求めることはできません。
 それはそうと、平均値と中央値ではどちらが上でどちらが下でしょうか。グラフの形から判断してください。

 答えは、グラフの下の方、すなわち「423万円が中央値」で、グラフの上の方、すなわち「551万6千円が平均値」です。グラフの右の方、すなわち少数だけれども非常に高額の所得を得ている人たちがいる影響で、平均値は中央値より大きくなります。
 端的に言えば、少数の大金持ちが平均値を釣り上げているわけです。でもその人たちの人数は少ないですから、中央値にはほとんど影響を与えないのです。

 ところで、最近「相対的貧困率」という言葉を聞くようになりました。皆さんもテレビなどで「子供の6人に1人が相対的貧困」という言い方を聞いたことがあるでしょう。
 ところで「相対的貧困」とはどういうものかというと、世帯の所得などが全体の「中央値の半分以下」であることをいいます。ということは、全体がどれだけ豊かになろうと、豊かさにバラツキがあれば、必ず相対的貧困は存在することになります。
 でも冷静に考えてみると、「子供の6人に1人が相対的貧困」と言われても、その数字が大きいのか小さいのかよくわからない。それがどれだけ大変なことか、あるいはそうでもないのか、実はよくわからない。
 では、上の所得グラフから「中央値の半分以下の割合」を求めてみましょう。中央値423万円の半分は211.5万円で、その割合はおよそ20%。これが所得が中央値の半分以下の世帯の割合とみなすことができます。
 これをもって相対的貧困率としてもよいでしょう。「子供の」というより「大人の相対的貧困率」と言ってもよいものでしょうけれども、「家計の所得」を元に計算すると、「5人に1人が相対的貧困」ということになります。

 他の資料も見てみましょう。2つ目の資料は総務省統計局のサイトで公表している「二人以上の世帯の貯蓄額の分布」(2018年)です。


 (図2)のグラフから「中央値の半分以下の世帯の割合」を求めてください。

 先ほどの「所得」の分布より極端ですね。平均値はグラフに書いてあるように1752万円ですが、ピークはグラフの一番左の「100万円未満」です。すなわち最頻値は「50万円」となります。
 さて、中央値はいくらでしょうか。また、このグラフから「大人の相対的貧困率」を求めるといくらになるでしょうか。
 下から順に割合を足していくと、1000万円までで50.3%となります。つまり中央値は約1000万円とわかります(総務省統計局のサイトによると「貯蓄0世帯を含めた中央値は978万円」です)。
 その半分は約500万円。グラフから500万円以下の割合を足すと、32.4%ですから、「ほぼ3世帯に1世帯が相対的貧困」ということになります。この数値を見ると、「子供の相対的貧困率」は「大人の相対的貧困率」に比べてむしろ少ないという見方もできますね。


寿命の平均値と中央値と最頻値(2018年)

 平均寿命は厚生労働省が毎年発表します。ところで、平均値があるということは、中央値も最頻値もあるはずです。でも、平均寿命という言葉はよく聞きますが、寿命の中央値、寿命の最頻値という言葉は聞きませんね。探ってみましょう。

 2018年の日本人の平均寿命は女性が87.32歳で、男性が81.25歳です。
 さて、寿命の中央値と最頻値は何歳くらいでしょうか? まず結果を予想(平均値より上か下か)し、2018年の年齢別死亡率のデータからエクセルで加工して求めてください。

 ところで、平均寿命とは何の平均値なのでしょうか。まずはそれを知らなければなりません。そしてそれがわかれば、寿命の中央値と最頻値もわかります。いや、データがそろえば、平均値を求めるより、中央値や最頻値を求める方が計算はむしろ簡単です。数値の最も大きいところが最頻値で、人数を足していってちょうど半分のところが中央値ですから。平均値は値を全部足して総人数で割るのですから、中央値や最頻値を求めるのに比べて計算は大変です。
 平均寿命は、その年の各年齢ごとの死亡率から算出します。値が男女で異なりますので、ここでは「女性」の値を元に平均寿命の計算法を説明しましょう。元データは2018年の「簡易生命表」です。厚生労働省のサイトからダウンロードできます。
 まず100,000人が生まれたとします。この数に0歳の死亡率を掛けると179人、これだけの人が0歳で亡くなることになります。残り99,821人が1歳の誕生日を迎えて、その数に1歳での死亡率を掛けて、28人が1歳の間に亡くなって、99,793人が2歳になります。この計算の繰り返しです。
 高齢になるとじわりじわりと死亡率が高くなっていきます。例えば100歳での死亡率は約30%です。なお、表では105歳以上はひとくくりになっていますが、105歳以上での死亡率は(当然のことながら)100%です。
 こうして出来上がった各年齢ごとの死亡者数、それはつまり「ある年に産まれた男女10万人ずつが、2018年の各年齢ごとの死亡率と同じ割合で亡くなると想定したときの、それぞれの人が生きた年数」でもありますが、その平均値が平均寿命です。一応申し上げますと、厚生労働省の資料では「死亡」という言葉を極力使わずに説明したり計算したりしているものですから無駄にややこしいのですが、結局のところ上の計算法と同じ結果になります。
 下図は、上の計算に従って「各年齢ごとの死亡者数」をグラフにしたものです。2018年の「寿命曲線」と呼ぶことにしましょう。


 平均値は女87歳・男81歳ですが、若くして亡くなる人が一定数いる一方で、120歳を超えて生きる人はまずいませんから、グラフは左方向(若い方)に長く伸びて、右方向(高齢側)は急激に落ち込みます。そしてこうなると、若くして亡くなる人の影響を受けて、平均値はその分低めになります。
 ここまで来れば、寿命の平均値だけでなく、中央値や最頻値を求めるのもすぐそこです。
 「最頻値」は、すでに求めた「各年齢ごとの死亡者数」の中で数が最大になるところ。つまり「女93歳、男88歳」が最頻値です。
 また「中央値」は「累積死亡者数」が5万人(10万人の半分)に達したところで、「女90歳、男84歳」となります。
 なお、このデータをもとに10万人の生きた年数の平均値を計算(期央で亡くなった考えて0.5歳分を調整)すると、女性が87.31歳、男性が81.25歳となりました。男性は厚生労働省発表ものと一致し、女性は0. 01歳の誤差が出ましたが、元の簡易生命表で「105歳以上」 が一括りになっていることなどが影響しているものと思われます。
女性男性
平均値87.3281.25
中央値9084
最頻値9388

 以上まとめると、次のようになります。
 平均寿命が平均的とは限りません。現実には「平均寿命よりもっと長生きする方がむしろ普通だ」とも言えるのです。
 このように統計は代表値によって、見え方が大きく変わります。ちなみに「家計の収入や貯蓄」は逆の傾向になります。すなわちグラフの左側の人数が多くて、右方向に長く伸びて、「最頻値<中央値<平均値」となります。
 ところで今生きている人にとって重要な指標は平均寿命より平均余命の方でしょう。そしてこれもまた余命の平均値だけでなく、中央値や最頻値を求めてみるとまた違った見方ができるかもしれません。お試しください。


2019年11月3日日曜日

平均点の捉え方

前回の試験で1組の平均点は 60 点で、2組の平均点は 50 点だった。
今回の試験で1組の平均点は 80 点で、2組の平均点は 75 点だった。
そうしたら2組のある生徒が言った。
前回1組との差は 10 点だったのに、今回は 5 点に縮まった。2組のみんなが頑張ったということだ。
その言い方にボクはまたハマった。
いや、その捉え方でいいのかな? 間違えた分の点数で考えてみようよ。
前回1組が間違えたのは 40 点で、2組が間違えたのは 50 点。
つまり、2組は1組より 25% 多く間違えた。
一方、今回1組が間違えたのは 20 点で、2組が間違えたのは 25 点。
比率は前回と全く同じだ。
数学教員の習性なのかもしれないが、ボクはついこういう見方をしてしまう。
さて、この話も統計の授業のネタで使えるかな? なにはともあれストックしておこう。
ネタは生活の中に転がっている。

「お金が無くて大学に行けない」と言うなら

 「お金が無くて大学に行けない」と言うなら、クラウド・ファンディングでお金を集めればいい。お金が集まらなかったらどうするか。それはきっと、大学に行かない方が良いというシグナルだ。
 お金があって、かつ大学に行きたいと思うなら行けばいい。行く価値があるかどうかは一概に言えないが、払った額・かけた時間に見合うかどうかはともかく、行けば行ったで何かが得られるだろう。

 大学に行くかどうかは、賭けだ。それは権利でもなければ、義務でもない。お金が無い人が大学に行くのは、大きな賭けだ。奨学金を借りて大学に行くのは、リスクの大きな賭けだ。
 お金がある人も無い人も、それぞれの現実から進むしかない。そしてどの道に進むにせよ、その先がはっきり見えている人はいない。だから進路は、誰にとっても賭けなのだ。

 あなたが「お金が無くて大学に行けない」と言うなら、クラウド・ファンディングでお金を集める方法がある。それがあなたにふさわしいと考える人が何人かいれば、きっとお金が集まるだろう。そうでなくても、その結果はあなたにとって割りと客観的な指標になる。


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