2019年3月20日水曜日

縄文式時空論

 その昔、時間はぐるぐる回っていた。循環するものを区切ることで、時刻が生まれ、暦が生まれた。
 人もまた循環した。生まれ変わりである。それは時刻や暦と同じように、何度でも繰り返す。
 そして時刻や暦と同じように、人はそこに区切りを入れる。生死を繰り返す間の一区切りが一生である。
 循環する時間には始まりもなければ終わりもない。そして過去も未来もない。これが昔の人にとっての時間であり、みんなが共有する時間だった。


 さて、このとき空間はどうだったのかというと、空間もまた循環していた。森を進んで川を渡ると、また森が続いた。人に出会ってさらに進むと、また人に出会った。
 このように同じことが繰り返すのである。一日と一年と一生がぐるぐる回るのと同様に、空間もまたぐるぐる回る。海の向こうにはまた森があるのだろうし、空のかなたにもまた人がいて森や川や海があるのだろう。これが昔の人にとっての空間であり、みんなが共有する空間だった。


 さて、あるとき誰かがぐるぐる回る丸いものの一ヶ所を切って、長く引き伸ばした。時間を直線状にしたことで、過去と未来が生まれた。同じ時は二度と巡ってこないことになった。空間に直線状の軸を設定したことで、距離が生まれた。すべての場所は違う場所になった。


 そして人は、直線の先がどうなっているのかを気にし始めた。昔の昔のそのまた昔や、未来の未来のもっと先の未来や、向こうの向こうのそのまた向こうを。
 けれども、それらが本当にあるとは限らない。それらは、時空を直線的に考えるようになった人たちのちょっとした習慣みたいなものなのかもしれない。

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