「三つ子の魂、百まで」というけれど、このスパンは現代の変化のスピードに比してちょっと悠長すぎる。そこでボクはこれを現代風にアレンジして「十七歳のたましい、八十まで」という言い方を提唱したい。
「三歳の頃の性格は百歳まで変わらない」と言われても、三歳児に自分の性格をどうこうできるはずは無いし、いまさら「変わらない」と宣告されてもますます手の打ちようが無い。また、寿命が延びたとはいえ、自分が百歳まで生きる可能性はおそらくそんなに高くない。
だから「三つ子の魂、百まで」と言われて「なるほどね」と思うことはあっても、「じゃぁこうしよう、あぁしよう」とはならないのだ。その意味で生きる指針にならないのだ。
「十七歳のたましい」は「三つ子」のそれとは違う。そのすべてとは言えないが、一定の部分は自分が主体的につくったものだ。しかもそれが如何なるものであるかを、十七歳の少年少女はある程度認識できる。世の中に出る一歩手前にあって、自分の向き不向きや好き嫌いに気付いておくのは悪いことではない。「十七歳のたましい」は社会人として生きる期間において強い影響を持ち続けるだろう。
ところで、「社会人として生きる期間」をいつまでと想定するか。いま現在の標準的な定年であるところの六十歳では早すぎる。その先何十年も生き続けるだろうこと、そして六十歳を過ぎてから当分の間は元気だろうことを考えると、もっと長い期間を想定したい。
自分の子供の世話になるのは、同時に破綻寸前の国の年金基金にさらなる負担をかけるのは忍びない。そして何よりも、自分はまだまだ働けるし、働きたい。とはいえ、百歳までばりばり働くと断言するほど自信過剰にはなれない。だから、「八十まで」なのである。
すなわち「十七歳のたましい、八十まで」にボクは「十七歳の頃の嗜好や希望・想いはその後それほど変わらない。それを八十歳まで維持して、それまで働け」という意味を込めた。加えて言うと「維持するだけでは時代の変化に対応できそうにないし、結局萎びていくだけだろうから、ちょっとずつ更新していかないと八十まではもたないゾ」と言いたい。ベースは大きく変わらないにせよ、大人になってもなにがしか成長するだろうから、マイナー・バーションアップはできるだろう。
と、ここまで書いてきてふと思った。これはボク自身に向けてのエールでもある。十七歳の少年少女に伝えたいと思って書いてみたのだが、彼らにはピンとこない話かもしれない。彼らの年代にもっと切実に考えるべきことは、他にあるのかもしれない。
この話がぴったり当てはまるのは、むしろボクの世代なのかもしれない。定年が、そんなに近くはないにせよ、意識にのぼる年になってきた。定年後のことをふと考えるようになった。そして、まだ十分に間に合うお年頃なのである。
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