(2017年春)
受けたサービスの対価としてお金を払うという考え方はやめよう。組織を経済的に支えるためにお金を払うんだと捉えよう。学校の授業料も同じである。学校の価値を認めて、授業料を支払うことでその運営を支援していると考えれば良いのである。
いまスキー部の春大会の引率でスキー場に来ているのだが、部員たちが支払っているリフト代も同じ。高校生は技術者・管理者・従業員という形でリフト運行やスキー場運営に関わることはできない。けれどもお金を払うという形でならリフト運行を支えることはできる。そしてそういう形でスキー場の運営に関われる。だからリフト代を払うのである。
私は自分の勤務校にお金を払うどころか、学校からお金を受け取っている立場だが、私は授業を受け持ったりスキー部の引率をするという形で学校運営を支えている。だからお金を払わなくて良いわけだ。むしろ私なりのやり方で学校を支えるために、私は給料を受け取っている。そう捉えれば良いのだと思う。
一方で私は娘が通う学校の授業料を支払っている。また去年の夏にはフィリピンの語学学校にお金を払い、今年の春にはプログラミング・スクールにお金を払った。いずれも私がそれら学校の存在意義を認め、お金を払うこと以外に支援できないから、お金を払ったわけである。
もちろん学校でいろんなことを学んだわけだが、学んだ分だけ支払ったというわけではない。1万円払ったから、1万円以上の成果を得てはならないということではない。また、2万円払ったから、それに見合う成果を得なければ損するという話でもない。学びの場にそんな損得勘定を持ち込んではならない。自分が学べる環境を維持するために、それら組織の社会的存在意義を認めてお金を払うのだと考えれば良い。
同じように、スキー場のリフトに何らかの事情で少ない本数しか乗れなかったとしても、勿体無いだの損しただの思うより、自分が使った以上に支えたのだと、そう思えば良いのである。
食材を購入するのも、生活必需品を購入するのも同じ。お金を払う目的はあくまでも農家の人を支え、メーカーを支えること。そういう形で農業や工業に参画するためにお金を払うのである。
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