2019年3月27日水曜日

農地的な生き方

自然と都会の間に農地がある。
農地は自然そのものではない。そこには人の手がたくさん入っている。
農地は完全な人工物でもない。自然の力がなければ、農地は成り立たない。

手つかずの自然の中では、暑ければ耐え、寒くても耐える。
都会では暑ければ冷房して、寒ければ暖房して、いつでも手ごろな温度になるように操作する。
農地では気温の変化を頼りにして、適宜人の手を加えながら、季節に応じて作物を育てる。

手つかずの自然の中で雨が降ったら、流れるも溜まるも自然任せで、元に戻るには時を待つしかない。
都会では遠い場所から水を引く一方で、都会に降った雨は一刻も早く海へ流そうとする。
農地では降った雨をなるべく有効に利用することを考える。

手つかずの自然の中では蛇に噛まれたら諦めるしかない。責任はどこにも誰にも無い。
都会ではレストランで食べて腹をこわしたり、学校で子供が怪我したりしたら訴えればいい。責任は他者にある。
農地ではなるべく不具合が起きないように手を施すが、なかなか思い通りにはならない。責任は自分で負う。

手つかずの自然の中ではお金は全く何の役にも立たない。頼れるのは自分だけだ。
都会ではお金がすべてである。お金が無ければ何もできない。お金があれば何でもできる。
農地では自分に必要な物のうちのある程度は自分の土地で賄って、お金を介して他の物を手に入れる。

私は手つかずの自然に憧れているわけでもないし、都会暮らしに疲れたというつもりもない。
人間はクマやカエルやコオロギのように暮らしてはいけないし、また機械になることもできない。
人間は自然そのものではないし、もちろん人工物でもない。その中間、いわば農地のような存在だと思うのだ。

人間の体は農地だ。自然には逆らえないが、調子が悪ければ手を入れて整えたいと思う。
脳ミソも農地だ。適当に耕したり休ませたりしながら、力を発揮できるような土壌を作りたい。
子供も農地だ。計画通りに育つはずもないので、各自の中に宿る自然の力を引き出すべく手を入れる。

幸いなことに、私の実家には狭いながらも農地があって、両親が田んぼで米を作り、畑で野菜を作っている。
今は2人とも元気だが、けっこうな年だから、このままではやがて耕作放棄地になるかもしれない。
私は子供の頃は多少は手伝いもさせられたが、今は都会に住んでいて農業はまったくやっていない。
ちょうどいい頃合いだ。そろそろ農業をやりながら、農地的な生き方をしてみるのも悪くなさそうだ。

自然は、人の都合などお構いなしに好き勝手に振る舞って、しばしば人に危害を加える。
都会は、自然が人間になるべく影響を与えないように、その力をできるだけ無力化しようとする。
農地は、自然の力をあてにして、手を入れながら、自然の力を引き出そうとする。

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