2019年3月25日月曜日

「ソクラテスは死ぬ」のか?

 論理学の教科書にしばしば出てくる例に、次のようなものがある。
前提1:すべての人間は死ぬ(べき存在である)。
前提2:ソクラテスは人間である。
結論:よって、ソクラテスは死ぬ(べき存在である)。
前提1と前提2から結論が導けるから、これは正しい演繹である。

 ところで、これは「ソクラテスは死ぬ(べき存在である)」ことを証明したことにはならない。
 なぜか? 結論が正しいと言えるためには前提1と前提2が正しくなければならないのだが、前提1と前提2を吟味してみると、それらが正しいかどうだか怪しいのである。
 まず、前提1について。これまでに死んだ人を書き連ねても、前提1が正しいことを示したことにはならない。前提1が正しいことを示すためには、いま生きている人とこれから産まれてくる人がすべて死ぬことを示さなければならないが、それは不可能だ(まぁ人類が滅亡すると言えればいいんだが、それは予言であって、証明ではない)。つまり、前提1が正しいことはどう転んでも示せないのである。だから、結論が正しいとは言えないのである。
 前提2「ソクラテスは人間である」を正しいものとして前提1を考えると、またまたおかしなことが起きてくる。「すべての人間」の中には当然ソクラテスも含まれる。だから「ソクラテスが死ぬ」ことを確認してからでないと、「すべての人間が死ぬ」ことが言えないのである。結論が成り立たなければ、前提1は成り立たないのである。つまりこの論法は、結論を認めた上で、いったん前提1へ迂回して、再び結論が成り立つと主張しているのだ。
 次に、前提2について。これを示すためには、まず「人間」を定義しなければならない。「条件・・・を満たすものを人間という」と。その上で「ソクラテスは・・・を満たすから、ソクラテスは人間である」と、このように前提2を示すことになる。
 しかしこれも単に迂回しているにすぎない。なにもソクラテスを含む集団を定義しなくても、ソクラテスだけを定義すれば十分である。そうすると、前提2は「前提」というより、「定義」そのものになる。つまり、前提2は「ソクラテスを人間と定義する」というのと実質的に同じである。要するに、前提2は「正しいか正しくないか」という問題ではなくて、単に一方的に「宣言」しているにすぎない。

 以上をまとめると、上の論は、
定義:ソクラテスを人間とする。
前提:ソクラテスを含むすべての人間は死ぬ。
結論:よって、ソクラテスは死ぬ。
と同じである。そしてこの論は、「人間」に言及しなければ、
前提:ソクラテスと他のある者は死ぬ。
結論:よって、ソクラテスは死ぬ。
と同じである。さらに、「他の者」に言及しなければ、
前提:ソクラテスは死ぬ。
結論:よって、ソクラテスは死ぬ。
と同じである。

 演繹とはそういうものだ。前提から結論を導くことはできても、結論が正しいことは示せない。前提が正しいことを示せないからである。前提が結論を含んでいるから、必然的にそういうことになる。


0 件のコメント:

コメントを投稿