2019年3月27日水曜日

数学的正しさで物事を解決しようとする人とは、なぜ議論が成り立たないのか?

 数学的な正しさは、条件を厳密に設定して、その中でのみ成り立つ正しさです。そこでは「100%絶対に正しい」ものだけを「真」といい、反例が1つでもあったら「偽」とします。「99%正しい」ものも「まるでデタラメ」なものもひっくるめて「偽」です。
 ところで、日常の議論においては「誰が見ても絶対に100%正しい」ようなものは、最初から議論の対象になりません。人によって見方・考え方が違うから議論になるのです。そしてそこで目指すものは「意思決定」です。それが「絶対に正しいものではない」ことを承知の上で、より良い選択をしようとするわけです。

 言い換えると、数学の論理は「そぎ落とす」論理です。あいまいさ(境界)をそぎ落とし、ニュアンス(豊かさ)をそぎ落とし、背景(個別事情)をそぎ落として、骨格だけを抜き出して、真偽判定に持ち込みます。
 一方、議論の論理は「取り込む」論理です。いろんな見方・考え方を取り込み、異論・反論までも取り込みます。そして、それらすべてを勘案して「意思決定」しようとします。
 すなわち「数学的正しさ」で物事を解決しようとする人は「視野を狭める」ことでそれを為そうとするのに対して、「意見を出し合って」物事を解決しようとする人は「視界を広げる」ことでそれを為そうとするわけです。

 数学的正しさで物事を解決しようとする人にしてみれば、相手の言い分は「前提を覆してばかり」で、単なる「言いがかり」のように見えるでしょう。一方、意見を出し合って物事を解決しようとする人からみれば、相手はまるで「人の話を聞こうとしない、議論する気がない」ように見えるでしょう。
 だから両者の間では議論が成り立たないのです。目指すべき目標(真偽判定か意思決定か)も違えば、そこに向かうための道筋(視野を狭めるか広げるか)も違うのですから、かみ合うはずがないのです。

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