2019年4月6日土曜日

パラドックスのからくり

◇ 私はウソつきである 
 この文は、時と場合によって、いろんなふうに読み取れます。私が昨日、仮病で仕事をサボったことを白状したともとれますし、「基本は正直者だが、しばしば他愛もないウソをつく」という多面性のうちの一面を述べたものともとれますし、「人はみな、真なる命題だけを口にして生活することはできない」という法則を述べたものともとれます。いずれにせよ、日常の言語感覚からすれば、この文は何の違和感もない、まことにノーマルな文だといえるでしょう。
 ところが、論理学では、この文はパラドックスだといいます。つまり、こういうことです。私がウソつきだとすると、この文は本当のことを言ってることになるから、ウソをつくことと矛盾する。また、私が正直者だとすると、この文は事実と違うことを言ってることになるから、正直者であることに矛盾する。私がウソつきだと考えても、正直者だと考えても、どちらにしても矛盾するから、パラドックスである、と。
 なぜ、日常的にはノーマルなものが、論理学の手にかかるとパラドックスになってしまうのでしょうか。答えは「時間」です。論理学は、時間を排除することで成り立っているのです。そして、論理学で時間を排除しているということは、「変化」を認めないということでもあります。
 逆にいうと、時間や変化を含めて考えれば、その文はパラドックスでも何でもないのです。たとえば、「私は昨日ウソをついた。そのことを私はいま正直に述べている」、これで何も問題はありません。
(※ 別の記事 で「レストランに行って、ごはんを食べる」のと「ごはんを食べて、レストランに行く」のとはどちらも「P∧Q」で同値だという話をしましたね)

◇ この文は正しくない
 「この文」とは「この文は正しくない」という文、つまり自分自身のことを指しています。これも論理的には「正しいとしても、正しくないとしても、どちらにしても矛盾する」から、パラドックスとされます。
 けれども、時間を含めて考えれば、パラドックスの正体が見えてきます。というのは、「初めに1つの文があって、次にその正誤を判断する」という時間の順序があるはずなのです。
 ここで、「この文は正しくない」という文が作られる過程を考えてみましょう。そうすると、時間の順序がヘンなのです。「文を書いている最中に、未完成のその文の正誤を判断する」みたいなおかしなことになってます。
 つまり、こういうことです。論理学では時間を含めないからパラドックスが生じるが、時間を含めて考えれば、こんなこと出来るはずないのだから、この文は「ありえない文」なのです。

◇ 例外のない規則はない
 「例外のない規則を作ってはならない」という「規則」を作ろうとすると、これもまたパラドックスになります。この規則を他のすべての規則に適用しようとすると、この規則だけには例外がないことになって、矛盾します。この規則にも例外を認めるとすると、他のある規則には例外がないことになって、矛盾します。だから、この規則は、論理学的に扱うと、自己矛盾するのです。
 そして、なぜパラドックスになるかというと、そのわけは「論理学では、例外を認めない」からなんですね。そうでなければ、論理学そのものがパラドックスになってしまいかねない。 ・・・ うーん、話が入り組んできました。
 つまり、カラクリはこうです。論理学では、物事を「真か偽か」の2択で判断し、その間を認めません。すなわち、論理学は「程度」を排除することで成り立っているのです。すべてを一律に扱って、例外も可能性も認めないのが論理学なのです。だから先ほどの規則がパラドックスになるのですが、程度や例外や可能性を認めれば、パラドックスは解消します。「例外を認めてもよい(認めなくてもよい)」とか、(憲法で法律を規定するように)「自らを例外扱いする」とか。

 最初の文「私はウソつきである」に戻りましょう。それがパラドックスになってしまうカラクリを、「論理学が程度を排除している」ことに求めることもできます。論理学的に考えるとき、「ウソつき=正しくないことだけを言い、正しいことを絶対に言わない」と想定し、「正直者=正しいことだけを言い、正しくないことを絶対に言わない」と想定します。現実的に考えると非常に不自然な想定ですが、そのように想定して初めて、パラドックスが生じるのです。そんなに極端に走ることなく、幅を持たせて捉えれば、パラドックスにはなりません。
 論理学は有用なものですが、いくつかの弱点を持っています。その弱点ゆえに、普通に考えればパラドックスでないものが、論理的にはパラドックスになってしまうのです。
 <弱点その1>は、時間を扱えないこと。したがって、変化も順序も過程も扱えない。論理学は、時間的に静止した体系なのです。
 <弱点その2>は、程度を扱えないこと。したがって、可能性も例外も扱えない。論理学は、真偽判定に特化した体系であって、程度を評価することはしません。
 論理で扱える範囲は、ずいぶんと狭いものなんです。

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