事実 → 根拠 → 見方 ← 動機 ← 感想
知識 → 道具 → 思考 ← 発想 ← 感性
現実 → 観察 → 判断 ← 目標 ← 希望
事実と感想の間に「見方」がある。事実だけを並べても、感想だけを述べても、何も示したことにならない。事実を根拠として、また感想を動機として、事実でも感想でもない一つの「見方」を示そう。
知識と感性の間に「思考」がある。知識を積み上げるだけでは、あるいは感性を働かせるだけでは、考えたことにならない。感性から発想を得て、知識を道具として使うことで「考える」ことができる。
現実と希望の間に「判断」がある。現実を受け入れるだけでは、あるいは希望に胸ふくらませるだけでは、適切な判断はできない。現実を観察して、目標を定めて、ようやく「判断」する準備が整う。
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│事実│ │見方│ │感想│
│知識│ → │思考│ ← │感性│
│現実│ │判断│ │希望│
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(正しいもの) (創造と解決)(自分の世界)
事実・知識・現実の括りを「正しいもの」と呼ぼう。その名の通り、誰が見ても正しいものだ。また感想・感性・希望の括りを「自分の世界」と呼ぼう。自分がよって立つところ、すなわち自分である。
そして「正しいもの」と「自分の世界」の間に「見方・思考・判断」がある。新しいものを生み出したり、次から次へと現れ出るいろいろな問題を解決したりするのは、この括りである。
学校では「事実」と「感想」は扱うのだけれど、その間すなわち「見方」の部分がすっぽり抜け落ちている。社会で求められるのは、自分で考えて判断して行動すること。知識だけでも、感性だけでもそれは為しえない。
一番大事なのは、真ん中だ。考えるとは、つなぐこと。
学校についてもう少々語ろう。日本の学校では「知識」の習得を中心にしながら、それだけでは足りないと、もう一方で「感想」を書かせてきた。
「知識」は答えが1つに決まる。つまり、○×がはっきりする。先生の立場からすれば、知識は客観的な評価ができる。だからテストの採点について、誰からも文句を言われない。
一方の「感想」は何でもアリ。要するに、言いたい放題である。先生の立場からすれば、否定も肯定もせずに、勝手に言わせておけばいい。そうしておけば、誰にも責任を問われない。
ところで、知識と感想の間にもう一つ大事なものがある。「ものの見方」である。これが「思考の素」であり「発想の種」であり「生きる力」になる。
けれども、先生の立場からすれば「ものの見方」は手に余る。答えが1つに決まらないからである。多様性と妥当性があるからである。そしてこうなると、知識のように客観的な評価はできないし、感想のように放置することもできない。
そこで先生はどうするか。それを知識か感想かのどちらかに振り分けようとするのである。知識側に振り分けて「正しくないからバツ」、もしくは感想側に振り分けて「勝手に言ってろ」と。こうすれば先生は、誰からも文句を言われず、誰にも責任を問われない立場を維持できるわけである。
これが、日本の学校の最大の弱点だ。致命的な欠陥だ。
では、どうすればいいか。処方箋はただ1つ。先生たちから「客観的な評価」なるものを奪い取るしかない。そうすればきっと、というより案外それだけで真ん中の「見方・思考・判断」に軸足が移る。そして私たちの「創造力と問題解決力」が花ひらく環境が整うだろう。めでたしめでたし。
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