2019年4月13日土曜日

古文は方言だと思え

 現代文と古文の違いを2つ挙げましょう。1つは「現代文では細かいところを聞かれるが、古文では大筋をつかめばよい」ということです。現代文は私たちが普段使っている言葉ですから、基本的にはみんな読める。だから、大筋を聞いても差がつかない。そこで、細かいところを聞いて、受験生に差をつけようとします。一方、古文は普段使わない言葉だから、読みにくい。だから大筋を問えば、いい塩梅に差がついて入試の目的を果たせるわけです。
 もう1つは「古文では論理は問われない」ということです。現代文であれば多少なりとも論理的な構造の文章が出されたりもしますが、日本語にはもともと論理なんてものはないのです。原文にないのだから、問題に出しようがないのです。
 では古文で何を問われるのかというと、情緒です。現代文では情緒と論理の両方が出されますが、古文で出されるのは情緒だけ。要するに、フィーリングです。
 あともう1つ、古文を勉強する上での心得を述べましょう。読みにくいけれど、「古文はやっぱり日本語」です。それを外国語のように勉強しようとすると、きっと失敗します。単語帳に載っている古文単語を憶えて対処しようとするのは心得違いです。
 たとえて言うなら、古文は「きつい方言。遠くの辺鄙なところに住んでいるおじいさん・おばあさんの言葉」と思えばいいでしょう。「訛りがきつくて、最初は何を言っているのかさっぱり分からない。でも慣れれば、少しずつ言いたいことが分かってくる」、そんなとらえ方がちょうどいいと思います。
 漢文も同じです。日本の高校で学ぶ漢文は返り点などをつけて古文風に読むものであって、中国語の古典を学んでいるのではありません。和風にアレンジしたものを和風テイストで読むのが高校の漢文です。ですから、先ほど書いた3点、すなわち、大筋をつかめばよい、問われるのは情緒だけ、でもやっぱり日本語、以上のことは古文でも漢文でも同じです。

 これら3点を確認すれば、おのずから古文・漢文の必勝法が見えてきます。ずばり言いましょう。「古文は方言に訳せ」。
 地方の人であれば、普段しゃべっているんだけど、読み書きでは使わない地元の言葉。近所のお年寄りがしゃべっていて、自分ではあまり使わないけれど、意味は分かる言葉。古文の文章を、そんな方言に直して読むのが一番です。
 首都圏の人や地元の方言がどうしても使えないという人は、関西弁に直しましょう。関西弁はなかなかメジャーですから、多くの人はそこそこ使えるはずです。お笑い芸人のノリで訳せばいいのです。
 私は冗談を言っているのではありません。そのやり方がいかに合理的か、もう少し説明しましょう。「古文は日本語だ」とは言っても、意味をとらえるためには分かりやすい言葉に直したい。けれども、標準語に直そうとすると、どうしても細かいところにこだわってしまいます。それは現代文を勉強した副作用でもあるのですが、先ほど述べたように「大筋をつかめばよい」のですから、一字一句正確に訳す必要はないし、ましてや「てにをは」にこだわって読みを止めてしまったら何にもなりません。
 ラフに理解すればいいのです。もともと論理的な話ではないのです。細かいところは聞かれないのです。情緒つまりフィーリングが分かればいいのです。古文は要するに「きつい方言」みたいなものなのですから、方言には方言で返せばいいのです。
 試しにやってみましょう。たとえば枕草子の一節「春はあけぼの・・・いと、おかし」であれば、「春ゆうたら、明け方やで・・・めっちゃ、おもろい」、これでいいわけです。「おかし」の部分を「可笑しい」と訳したらバツを食らいます。だからといって「趣がある」なんて訳したら、まるでムードが合いません。もう一度訳文を、ぜひ抑揚をつけて読んでみてください。意味も情緒もしっかりとらえていることがお分かりいただけるでしょう。
 漢文も同じです。たとえば論語の一節「子曰く、学成り難し」であれば、「先生がゆうてたで。勉強っちゅうもんはな、なかなか身にならん、て(そやけど、頑張ろな)」、どうです、ばっちりでしょう。
 このやり方で古文が楽しくなること、請け合いです。気がつけば、すいすい読めるようになっているでしょう。そして「なるほど、確かに古文は日本語だ」と納得できます。

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