さて、問題は高校です。実は高校にはなかなか変われない事情があるのです。2つのキー・ワードで説明しましょう。
○ 情報の非対称性始めに1つ目の「情報の非対称性」について。この言葉は経済学で使う用語ですが、ここでいう「情報」とは要するに「知識」のこと。あるいは「正解」と言ってもいいものです。それが「非対称」であるとはどういうことかと言うと、「差がある」ということです。その差を利用することで、先生の仕事が成り立っているということです。
○ 評価の客観性・公平性
具体的に言うと、「情報=知識=正解」を持っているのは先生で、それが生徒に向かって一方通行に流れていくのがこれまでの授業スタイルでした。先生が与える立場で、生徒が受け取る立場です。テストも同じで、先生が投げ込んだ「問題」というボールを、生徒が「理解・暗記」というバットで弾き返せば「○」で、うまく当てられなかったら「×」です。こういう形でこれまでは授業もテストも行われてきました。これが「情報の非対称性」です。
次に2つ目の「客観性・公平性」について。これまで高校の教員は「客観性」と「公平性」を守ることに心を砕いてきました。高校入試で、もしくは中高一貫校では中学入試で、出題ミスや採点ミスがあれば場合によっては新聞沙汰になります。そうならないように細心の注意を払ってきました。定期試験でも同じです。客観性・公平性を欠くことは教育の場にあってはならないこと、由々しき事態、生徒の一生を台無しにしかねない問題だととらえてきたのです。
ところで、なぜそんなにも客観性・公平性にこだわるのかというと、これも「情報の非対称性」ゆえです。評価に主観や不公平・不平等が紛れ込んだら「情報の非対称性」が崩れてしまうからです。平たく言うと、正解が正解でなくなってしまうからです。先生の与えるものが正しい知識でなくなってしまうからです。だから客観性・公平性を欠くことは、先生の存在意義を失わせかねない由々しき事態だと先生たちは考えるのです。
ところが新しい大学入試では、この2つが変わるんですね。これからの受験生に求められるもののうち、経験と作文にはそぐわないわけです。生徒たちは経験を通して外の情報を思い思いに取り込みます。それらが生徒たちの中でどのように生きるのか、どう結びつくのかも千差万別です。また、それを表現する際には外にある別の情報とつないで表現します。そういう情報の流れの中で、教員の優位性はどこにもありません。
ここに至って先生は、もはやティーチャー(教える人)ではありません。先生はむしろナビゲーター(誘導する人)のような存在になります。正しい知識を授け、生徒の答えが正しいか間違いかを判定する立場から、生徒たちに機会を与え、動機を誘い、助言するような立場に変わります。
そしてそうなると、客観的で公平な評価ができるはずもありません。それはもともと多様である上に、大学が多様性を確保するような選び方をするのですから、なおさらです。表面的で当たり障りのないまとまった文章と、深く切り込もうとしてハチャメチャになった文章のどちらが良いかは一概に言えません。それでも成績をつけなければならないのが学校の宿命で、それは生徒の動機付けにもなるのですが、主観を避けたら何の評価もできませんし、主観を交えれば必ずしも公平でない評価になるのは必然です。こうしてこれまでの学校で前提条件であった「情報の非対称性」と「評価の客観性・公平性」が崩れるのです。
ところで、「情報の非対称性」も「客観性・公平性」も生徒に学力をつけさせるという点においては間違ったやり方とは言えません。また、これからも大学入試で学力が問われることを考えると、今後なくなるものでもありません。けれども、これからの大学受験では他にやるべきことが現れると同時に、学力の比重が下がっていくのですから、結局は全く異なる2つのことを教員はやらなければならないことになります。
さて、教員にとっても考えなければならないことが山ほどあります。
- どの教科で何をやるか、つまり教科ごとの役割分担。
- 自分の教科で何をやるか、つまり作文指導なのか経験させることなのか興味を持たせることなのか。
- そして、学力をつけさせることとの配分。
そうは言っても、大学入試がどう変わるのか、具体的なことはまだ何も決まっていない。いったん決まったとしても、まだまだ変わるだろう。しかも、大学によって制度が異なる。さらに、どの大学もバラエティーに富む人材を得ようとする。評価もしにくい。けれども、ハッタリでもなんでもとにかく評価しなければならない。・・・こんな状況で高校はどうしたらいいのでしょう。
考えればいいんです。新しい大学受験で求められるものは「考える」ことです。それは今どきの社会で当然に求められるものだから、その反映として大学受験で求められるようになってきているのです。その流れの中で「高校の先生も考えることを求められるようになった」と思えばいいのです。受験生と同じです。
そしてその点においても、鍵となるのは「経験」と「表現」です。これまでにやったことのない授業・指導を経験し、失敗もしながら成長して、それを生徒の前で実践・披露するしかないのです。生徒がやるべきことと先生がやるべきこと、あまり変わりませんね。
実はもう一つあります。それは「多様性」。個々の先生が多様なことをやらなければならないと同時に、大事なことは教員組織が全体として多様であること。ここまで来ると、先生も生徒もまるで同じですね。
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