2019年3月19日火曜日

ゲーム理論とは?

 日本語では「ゲーム理論」、英語では「GameTheory」、同じものを中国語では「博奕论」という。中国語の「论」は「論」の簡略体である。また、日本では「博打」のことを「博奕」と書くこともあるらしい。ということは、中国語の「博奕论」を日本語に書きかえると「博打論」ということになる。
 「博打論」というとなんだか「賭け事必勝法」とか「いかさまの手口、教えます」みたいないかがわしさが漂う。でも、「ゲーム理論」といったところで「コンピュータ・ゲームの攻略法」みたいなものを想像する人も多そうだ。そう考えると、「博打論」より「ゲーム理論」の方がマシだとも言い切れない。「ゲーム」というときの楽しいイメージより、「博打」の真剣勝負のイメージの方がぴったりのような気もする。
 実際に博打はゲーム理論のテーマの1つである。狭い意味では「金銭の賭け」がそうだし、広い意味では「株式投資・保険契約」などもそこに含まれるだろう。さらには不確定要素をはらんでいるという意味では、人生のあらゆる選択は博打みたいなものだとも言える。
 「ゲーム理論とは、要するに博打論だ」、こういう言い方もあながち的外れではないと思う。

 ところで、それは「理論」と名づけられているが、それで1つの完結した理論というわけではない。むしろ「枠組み」もしくは「ツール」と捉えた方がいいだろう。人と人との相互作用を数学的に表現するための枠組み、コミュニケーションの特性を考察するためのツールだと。
 それは厳密な数学をベースにしている。それでいて柔軟に使えるツールである。そしてその柔軟性ゆえに、応用範囲は広い。まず経済学・政治学・社会学で使われるようになり、今では進化論(生物学)・量子論(物理学)・ネットワーク論(工学)などでも使われるようになった。細分化された学術分野を融合するものとして、これからますます使われるだろう。

 もちろん、ゲーム理論ですべてを語れるわけではない。現実の人間あるいは社会は、表に整理するには複雑すぎる。
 ゲーム理論は天気予報に似ている。そこに正確な情報をたくさん盛り込めば、精度のいい予測ができるだろう。けれども実際には正確な情報をたくさん盛り込むことなどできることではない。だから、正確な予測ができるはずもない。現実にはそこそこの精度の情報をいくつか盛り込んで予測するのが精いっぱいだろう。だから、予測はしばしば外れる。
 あるいは、ゲーム理論はニュートンの運動方程式に似ている。それを使っても、明日の風向きと風力を正確に予測できるわけではない。でも、風の予測が出来ないからといって、ニュートン力学が役に立たないということにはならない。同じように、人の心の綾をとらえられないからといって、ゲーム理論が役に立たないということにはならない。

 ここで、このテキスト「ゲーム理論・練習帳」の弱点を2つ挙げておこう。それゆえに設問に不自然さを感じるのかもしれないので。
 1つ目は「繰り返しゲーム」を扱っていないこと。ここで扱った問題はすべて「1回ゲーム」である。現実の人と人との関係は長期にわたるものだが、ここでは1回限りのコミュニケーションを想定している。
 2つ目は、大勢の人(あるいは人の集団)を扱っていないこと。ほとんどの問題で登場するプレーヤーは2人だけである。現実には第三者の存在も人の行動に影響を与えるが、それも無視している。
 不自然さを感じる部分と言えば、「プレーヤーは合理的で利己的」という点もそうかもしれない。現実の人は必ずしも合理的でないし、利己的でもない。少なくともそう見える。それら足りない部分は多々あるが、基本問題としてはこれで十分だろう。応用問題・発展問題は大学で、もしくは自学自習でやってください。

 結局のところ、ゲーム理論とはなんなのか? そんなことはどうだっていいや。やってみて「こんなもんか」と思えば、それがゲーム理論だ。それで十分。それこそゲーム感覚で楽しんで取り組んでくれれば、それが一番。


0 件のコメント:

コメントを投稿