似たようなケースはいくらでもある。たとえば人間は計算スピードにおいてもうだいぶ前に電卓に負けている。いや、そのはるか昔にソロバンにだって人間は負けている。人間が囲碁でコンピュータに負けたというのは、基本的にはそれと同じことだ。
「囲碁は複雑なゲームだ。それで勝ったのだから、やっぱりすごい」という人もいるが、それも違う。囲碁は実はものすごくシンプルなゲームなのだ。いかにシンプルかというと「ルールがある」くらいにシンプルなのだ。ルールの中でのみ考えればよい。ルールに反することは一切許されない。それほどまでにシンプルなのだ。
さて、人工知能は漫画を読んで笑えるだろうか? いや、絶対無理だ。笑うどころか、理解すらできないだろう。
ぼこっ人間は絵が理解できて、こんな文章でも読み取れて、それらを結び付けて解釈できる。そして、時に泣いたり笑ったりできるのだ。ところが、人工知能にはどちらもできない。絵もわからない。上のような文章も理解できない。それらを結び付けることもできず、要するに何もわからない。囲碁より漫画の方がよっぽど高度だから、そういうことになる。
はぁ~?
むにゃむにゃ
☆♡△#&♪!?
人工知能が写真を理解するレベルは上がっている。写真ならビッグ・データが使えるからだ。膨大な枚数の写真から特徴を取り出すことができるということだ。ところが、漫画にはビッグ・データがない。むしろそれぞれの漫画が個性的すぎて、抽出できるほどの共通の要素が最初から無いのである。だから人工知能は漫画を理解できない。それでも人は理解できる。人工知能より人の方がよっぽど優秀だから、そういうことになる。
人間が機械や道具に負けるなんてことは、あると言えば昔からよくあることだ。当たり前にある。人間が力いっぱい走っても、自転車は軽々と追い越していく。走高跳の世界チャンピオンより、紙飛行機の方が高く長く飛んでいられる。それと同じ意味合いで、AI囲碁が人間の囲碁名人に勝ったのである。
滞空時間が紙飛行機に及ばないことをもって「人間は紙飛行機に負けた」と言う人はいないだろう。人間のスピードが車に及ばないことを嘆くより、速く行きたきゃ車に乗ればいいのである。
計算のスピードや正確さをコンピュータと競うのは無意味だ。記憶容量や復元スピードをデジタル・デバイスと争うのは無益だ。そんなものは機械に任せればいいのである。
人間がやるべきことは他にある。人間がやるべきなのは「ルールの無いところで何かを創り上げる」こと。もうちょっと平たく言うと、話し合うこと、相談すること、感性を形にすること。これは機械にはできない。人工知能にもできない。
学校でも同じだ。知識を増やしたり、計算の速さ・正確さを磨いたり、そんなことに精を出すのはもう止めよう。それよりも、話をすること、感じること、新しい何かを作ることなど、機械にできない力を育てよう。機械と張り合うより、人間は機械をうまく使いながら、機械にできないことをやればいいのである。そうじゃないと、それこそ機械に負ける。人工知能に食われる。