スウェーデンのグレタさん、君たちと同世代だが、あの子がウチの学校にいたら、先生に怒られ、親は学校に呼び出されて、先生たちは寄ってたかってその動きを封じようとするだろうな。
日本では鈍いけれど、世界ではヨーロッパを中心に若者たちがその動きに共感して、ストライキするなどの動きが広がっている。中学生や高校生・大学生たちだ。そして多くの科学者も支持を表明している。
その動きから、私は今が「革命前夜」のような気がしている。暴力的な革命ということではなくて、「革命的な変化がもうすぐ世界に起きる」ということだ。
地球温暖化の問題は何十年も前から言われてきた。「二酸化炭素排出量を減らさなければ」という声も何十年も前からある。けれども掛け声ばかりで、温暖化ガスは一貫して増え続け、気温は確実に上昇し、すでに世界の気候が異常なものになりつつある。
その現実に「大人たちよ、いい加減にしろ、行動を改めろ」と訴えたのがグレタさんだ。「今の大人たちは逃げ切れても、私たち(今の子供たち)世代は逃げ切れない」という認識がそこにはある。
破滅に向かってまっしぐらに進んできた人類の活動が、グレタさんを契機として世界の若者が立ち上がったその動きによって、ようやく今度こそ舵を切る。そしてそうなると、社会の仕組みそのものが大きく変わらざるを得ない。その代わり様を「革命的」と私は言いたいのである。だから今が「革命前夜」なのである。
「先の見えない時代」という言い方は、
2020年2月9日日曜日
2020年2月6日木曜日
これからの大学入試を攻略する鍵
(2016/4/26)
「学力の3要素」は、- 知識・技能 … 答えが1つに決まるように作られた問題に、その通りの答えを出す
- 思考力・判断力・表現力 … 答えが1つに定まらない問題に、自分なりの答えを出す
- 主体性・多様性・協働性 … みんなで力を合わせて、新しい何かを創っていく
1.知識・技能
「知識」とは「関ヶ原の戦いは西暦何年か?」のような暗記型の問題で、「技能」とは連立方程式を解くような計算型の問題。これまでの大学入試問題の多くが、これに該当する。
ところで、これは「力」ですらない。「力」が出てくるのは、その次だ。
2.思考力・判断力・表現力
これまでの大学入試でいうと、小論文がこれに当たる。答えが1つに決まらないけれども、いくつかの想定された答えがある。
これは「力」である。そしてここまでは、一人の力で成し遂げるものである。
3.主体性・多様性・協働性
これからの大学入試の目標地点が、ここ。これまでの大学入試では、ほとんど無かったもの。ほとんどの人にとっての未体験ゾーンである。
ここに至って、答えは無い。サンプル問題を示そう。
「主体性・多様性・協働性」をどのように捉えるか。3.では、このような問題に答えることが求められる。だから「主体性・多様性・協働性ってつまりどういうことですか?」と人に答えを聞こうとしたら、その時点でアウトである。
各自(高校生、受験生、高校教員、大学スタッフ、親、…)の立場で論じよう。
それらをもとに、より良い未来社会について考えよう。
ではどうすればいいかというと、まさに「主体性・多様性・協働性」をフルに生かすしか打つ手はない。すなわち「みんなで(協働性)、いろんな発想を持ち寄って(多様性)、答えのない問題に取り組む(主体性)」、その姿勢が問われるということだ。
「主体性・多様性・協働性」をどのように捉えるか。これが、これからの大学入試を攻略する鍵である。
これまでの学校教育に足りなかったもの
- これまでの学校教育に足りなかったもの
- これまでの大学受験で問われなかったもの
- これから社会に出ていく人に必要なもの
- 視点を変えること
- 比較対照すること
- つなげること
- 視点とは、立場による視点、大局的な視点など。
- 比較対照とは、同じ部分と違う部分を見つけること。
- つなげるものは、人でも物でもアイデアでも。
2020年2月5日水曜日
箱ひげ図の授業ネタ
株式投資を開始するとき、将来の株価がどうなるかはわからない(収益は確定しない)が、確からしさ(確率)でもって収益の値を予想することはできる。その際に考えるべきことは、収益の期待値とばらつきの度合いである。期待値とは、つまり平均値のことである。ばらつきの度合いは、標準偏差で表される。
この場合、平均値は大きい方が望ましい。一方、標準偏差は小さい方が望ましい。標準偏差が大きい(ばらつきが大きい)ということは、それだけ大損する可能性が高いということだからである。その意味で、収益の平均値を「リターン」と呼び、標準偏差を「リスク」と呼ぶこともできるだろう。
では、ここで【問題】です。上の文でのリスク、リターンの捉え方に沿って、次の箱ひげ図ア~エの中から「ハイリスク、ハイリターン」の株式①と「ローリスク、ローリターン」の株式②のものを選びなさい。ただし、横軸は収益を表し、右方向がプラス、左方向がマイナスである。
慶応大学商学部2006年度「論文テスト」中の記述をもとに作問しました。俗に言うところの「ハイリスク、ハイリターン」とは異なりますが、こちらの方が経学的には真っ当な捉え方のようです。
Facebook でのタカタ先生こと高田和典さんの 投稿 にコメントしました。
《解答》
① イ ② ウ
この場合、平均値は大きい方が望ましい。一方、標準偏差は小さい方が望ましい。標準偏差が大きい(ばらつきが大きい)ということは、それだけ大損する可能性が高いということだからである。その意味で、収益の平均値を「リターン」と呼び、標準偏差を「リスク」と呼ぶこともできるだろう。
では、ここで【問題】です。上の文でのリスク、リターンの捉え方に沿って、次の箱ひげ図ア~エの中から「ハイリスク、ハイリターン」の株式①と「ローリスク、ローリターン」の株式②のものを選びなさい。ただし、横軸は収益を表し、右方向がプラス、左方向がマイナスである。
慶応大学商学部2006年度「論文テスト」中の記述をもとに作問しました。俗に言うところの「ハイリスク、ハイリターン」とは異なりますが、こちらの方が経学的には真っ当な捉え方のようです。
Facebook でのタカタ先生こと高田和典さんの 投稿 にコメントしました。
《解答》
① イ ② ウ
☆ 入試が入活に変わる
◇ 入試が入活に変わる
├ これからの大学受験で求められるもの
├ 大学入学の選抜基準が変わる
├ 志望理由書に何を書くか、面接で何を話すか
├ 高校は変わるのか?
└ 過渡期の今できること
4年前に書いた文章を整理しました。
◇ 学力とは「学ぶ力」
◇ 「可能性は無限大」なのか?
◇ これから流行る学校
◇ これまでの学校教育に足りなかったもの
◇ 自分を広げるということ
◇ これからの大学入試を攻略する鍵
├ これからの大学受験で求められるもの
├ 大学入学の選抜基準が変わる
├ 志望理由書に何を書くか、面接で何を話すか
├ 高校は変わるのか?
└ 過渡期の今できること
4年前に書いた文章を整理しました。
◇ 学力とは「学ぶ力」
◇ 「可能性は無限大」なのか?
◇ これから流行る学校
◇ これまでの学校教育に足りなかったもの
◇ 自分を広げるということ
◇ これからの大学入試を攻略する鍵
これからの大学受験で求められるもの
これからの大学受験で受験生に求められるものは何かというと、3つあります。
1つ目の「基礎学力」はこれまでの受験で求められていたものと基本的には同じです。重箱の隅をつつくような細かい知識を問う問題、やけに複雑な計算をしなければ値が出てこない問題などは減るでしょうけれども、中高生の勉強法が大きく変わるわけではありません。
2つ目の「経験」とは自分の成長の糧となるような経験・体験のことです。それを通して知的好奇心が育つような経験・体験のことです。そして、それはなかなか成果が目に見えないものでもあります。さらに家庭環境に左右される部分でもあります。子供が特に意識しなくても自然といろんな経験を積める家庭もあれば、そうでない家庭もあるでしょう。学校で面倒を見てくれるわけでもありませんから、生徒個人ならびに各家庭で意識しておくべき点は、まさにそこです。
3つ目の「まとまった文章を書けること」には学校でのやり方が大きく影響します。効果的なやり方、そうでないやり方、どれくらいの時間をかけるかなど、学校ごとの差が出てくるところです。ところで、何を書くかというと、知識ではありません。感想でもありません。書くべきものは自分の「見方」です。それをまず自分が意識化して言葉にして、そして他人に伝わるように書く、それが大学受験での書き方です。素材が自分の経験であれ自分の関心事であれ志望動機であれ「自分の世界」のことを書くのですから、それを自分のことを何も知らない他人に伝えるには、自分の「とらえ方・視点・見方」を書くしか打つ手はないのです。
これまで大学受験で求められていたものは学力だけでした。それに比べると、なかなか大きな変化ですね。大変だなぁと頭を抱えますか? それとも、楽しそうでワクワクしますか?
2つ目の「経験」と3つ目の「まとまった文章を書けること」をつないでもう少し考えます。単に経験というととても幅が広いものですが、大学入学のためにはそれを言葉で表現しなければならないことを考えると、ぜひ経験しておきたいのは読書です。
何を読むか、何のために読むかを説明しましょう。まず何のために読むかというと、知的好奇心を育むため、ある程度の知識を得るためとも言えますが、もっと大事なことは「ものの見方のサンプルを知る」ためです。普通とはちょっと異なる別の見方をすることで違う景色が見えたり、新しい見方に驚いたり、変な見方を楽しんだり、そんな経験を積みたいのです。大学入試で「自分の見方」を示すと言いましたが、それが他人に理解されないもの、独りよがりなものであっては何にもなりません。ではどんな見方がおよそみんなに評価されるのか、それを知っておきたいのです。
では、何を読むか。その目的を考えると、文学は対象から外れます。もちろん広い意味での経験ということでは文学でも良いのですが、「ものの見方のサンプルを知る」という目的に適うのはそれ以外の本です。いわゆる実用書・解説書・ビジネス書などの一般書です。科学系のもの、社会学系のもの、もしくはコラムのような読み物でも良いのです。要するに教養を高めるつもりで、文学以外のいろんな分野の本を読むのが一番です。
これまでの日本の学校では「読書といえば小説、作文といえば感想文」、そんな読書指導・作文指導をしてきました。けれどもそれでは、これからの大学受験にはまるで対応できません。これから読むべきは文学以外の本です。読書を通して得るべきものは、情緒や感動ではなくて、ものの見方や考え方です。
本を読む習慣ができれば、自然と「考える枠組み」が身につきます。その経験が大事だと私は思うのです。これからの大学受験でも、仕事を始めてからも、その経験が生きます。中学生・高校生の頃にいろいろな経験を積む中で、読書経験もその1つにカウントしてほしいと私は思うのです。
これまでの受験では学力をつけるだけでよかったのです。それに比べてこれからは、やるべきことがたっぷり増えます。高校3年生になってからではとても間に合いませんね。
余談ですが、グローバル時代と言われるようになって、日本の高校生の中に外国の大学に進学したいと考える人も出てきました。でも、現実にはなかなか受からないんですね。高校2年生か3年生になって、外国の大学を受けようと思っても間に合わないのです。語学の問題だけではありません。それよりも大学に対して訴えるべき「経験」が少なくて、またそれを表現する「文章」が書けないのです。英語で書ける書けないという問題以前に、書くべき中身を持ち合わせていないのです。東大に余裕で入るような学力のある高校生でも、こうして結局はスタートラインに立てないのです。
これからの大学入試でも「学力」は問われます。けれども比重はこれまでの3分の1です。そうなれば、高校生の受験対策は様変わりしますね。
○ 基礎学力この3つに尽きます。
○ 経験
○ まとまった文章を書けること
1つ目の「基礎学力」はこれまでの受験で求められていたものと基本的には同じです。重箱の隅をつつくような細かい知識を問う問題、やけに複雑な計算をしなければ値が出てこない問題などは減るでしょうけれども、中高生の勉強法が大きく変わるわけではありません。
2つ目の「経験」とは自分の成長の糧となるような経験・体験のことです。それを通して知的好奇心が育つような経験・体験のことです。そして、それはなかなか成果が目に見えないものでもあります。さらに家庭環境に左右される部分でもあります。子供が特に意識しなくても自然といろんな経験を積める家庭もあれば、そうでない家庭もあるでしょう。学校で面倒を見てくれるわけでもありませんから、生徒個人ならびに各家庭で意識しておくべき点は、まさにそこです。
3つ目の「まとまった文章を書けること」には学校でのやり方が大きく影響します。効果的なやり方、そうでないやり方、どれくらいの時間をかけるかなど、学校ごとの差が出てくるところです。ところで、何を書くかというと、知識ではありません。感想でもありません。書くべきものは自分の「見方」です。それをまず自分が意識化して言葉にして、そして他人に伝わるように書く、それが大学受験での書き方です。素材が自分の経験であれ自分の関心事であれ志望動機であれ「自分の世界」のことを書くのですから、それを自分のことを何も知らない他人に伝えるには、自分の「とらえ方・視点・見方」を書くしか打つ手はないのです。
これまで大学受験で求められていたものは学力だけでした。それに比べると、なかなか大きな変化ですね。大変だなぁと頭を抱えますか? それとも、楽しそうでワクワクしますか?
2つ目の「経験」と3つ目の「まとまった文章を書けること」をつないでもう少し考えます。単に経験というととても幅が広いものですが、大学入学のためにはそれを言葉で表現しなければならないことを考えると、ぜひ経験しておきたいのは読書です。
何を読むか、何のために読むかを説明しましょう。まず何のために読むかというと、知的好奇心を育むため、ある程度の知識を得るためとも言えますが、もっと大事なことは「ものの見方のサンプルを知る」ためです。普通とはちょっと異なる別の見方をすることで違う景色が見えたり、新しい見方に驚いたり、変な見方を楽しんだり、そんな経験を積みたいのです。大学入試で「自分の見方」を示すと言いましたが、それが他人に理解されないもの、独りよがりなものであっては何にもなりません。ではどんな見方がおよそみんなに評価されるのか、それを知っておきたいのです。
では、何を読むか。その目的を考えると、文学は対象から外れます。もちろん広い意味での経験ということでは文学でも良いのですが、「ものの見方のサンプルを知る」という目的に適うのはそれ以外の本です。いわゆる実用書・解説書・ビジネス書などの一般書です。科学系のもの、社会学系のもの、もしくはコラムのような読み物でも良いのです。要するに教養を高めるつもりで、文学以外のいろんな分野の本を読むのが一番です。
これまでの日本の学校では「読書といえば小説、作文といえば感想文」、そんな読書指導・作文指導をしてきました。けれどもそれでは、これからの大学受験にはまるで対応できません。これから読むべきは文学以外の本です。読書を通して得るべきものは、情緒や感動ではなくて、ものの見方や考え方です。
本を読む習慣ができれば、自然と「考える枠組み」が身につきます。その経験が大事だと私は思うのです。これからの大学受験でも、仕事を始めてからも、その経験が生きます。中学生・高校生の頃にいろいろな経験を積む中で、読書経験もその1つにカウントしてほしいと私は思うのです。
これまでの受験では学力をつけるだけでよかったのです。それに比べてこれからは、やるべきことがたっぷり増えます。高校3年生になってからではとても間に合いませんね。
余談ですが、グローバル時代と言われるようになって、日本の高校生の中に外国の大学に進学したいと考える人も出てきました。でも、現実にはなかなか受からないんですね。高校2年生か3年生になって、外国の大学を受けようと思っても間に合わないのです。語学の問題だけではありません。それよりも大学に対して訴えるべき「経験」が少なくて、またそれを表現する「文章」が書けないのです。英語で書ける書けないという問題以前に、書くべき中身を持ち合わせていないのです。東大に余裕で入るような学力のある高校生でも、こうして結局はスタートラインに立てないのです。
これからの大学入試でも「学力」は問われます。けれども比重はこれまでの3分の1です。そうなれば、高校生の受験対策は様変わりしますね。
過渡期の今できること
(2016年2月)
このたびの大学入試改革を「教育の2020年問題」と呼ぶ向きもあります。2020年とはセンター試験が変わる年です。現中学1年生が大学受験する年です。でもそのセンター試験ですら、2016年2月時点で具体的なことはまだ何も決まっていません。審議会で検討したり答申を出したりしている段階です。マークシート方式だけでなく、記述式も取り入れるだとか、英会話のテストも実施するだとか、テスト中にタブレットを配布するだとか、噂を含めていろんな情報が飛び交っていますが、実施する時期、受験できる回数、出題される内容も含めて決まったものは何一つありません。
数十万人規模が受けるセンター試験ですらこうなのですが、個別大学の入試制度についてはおそらく実施する1年ほど前に発表されることになるでしょう。これまでの例を見れば、およそそんなタイミングになりそうです。個別の大学は2020年を待たずに大学ごとに少しずつ動き出しています。2016年度入試から東京大学と京都大学で推薦入試が始まったのがその一例ですが、この場合もおよそ1年前に発表されました。
さて、こんな状況でこれからの受験生はどのように準備・対策すればいいのでしょうか。私は思うのです。
発表を待ったらダメ ですよ。
なぜかというと、発表されてからでは、どうせ間に合わないからです。具体的なものが決まっていなくても、大筋の方向性はすでに決まっているからです。そしてその変化の方向性がほとんどの人にとって良いものであると私は思うからです。
変化の方向性は「多様性」です。入試制度が多様化して、その1つ1つで受験生の多様な経験と能力が評価され、大学では多様な人材を確保しようと選抜するようになるでしょう。当面、従来型の一斉一発試験も残るでしょうけれど、これもまた多様性の1つです。
ところで考えてみると、そもそも生徒の志望が決まるのは、受験の1年前くらいなのが現実です。そんなに早くから受験する大学・学部が決まるものではありません。成長に伴って志望が変わるのですから、当然です。そう考えると、実施する何年も前に大学受験の具体的な制度を発表しても実はあまり意味ないんですね。
それを高校の先生の立場から見ると、生徒たちの受験先はすぐには決まらず、最終的には生徒たちの受験パターンが多様になるわけですから、みんなにとって有効なことをやろうとすれば、結局は多様性に対応しなければならないわけです。しかも生徒たちはいくつかの大学を併願するわけですから、なおさらです。ですから高校の先生にとっても、個々の大学の受験パターンがどうなろうと、いつ発表されようと、実はあまり関係ないのです。
だからどう考えても、制度発表を待つのは、損なのです。大学入試改革のことが今後ますますニュースで報道されたり受験情報誌に載ったりするでしょうけれど、そんな情報を追いかけるのは無駄なのです。
だからといって、具体的な形が発表されるまでこれまでのやり方を続けるというのは、愚かです。流れはすでに決まっているからです。では実際のところどうすればいいかというと、
変化の方向性は「多様性」です。入試制度が多様化して、その1つ1つで受験生の多様な経験と能力が評価され、大学では多様な人材を確保しようと選抜するようになるでしょう。当面、従来型の一斉一発試験も残るでしょうけれど、これもまた多様性の1つです。
ところで考えてみると、そもそも生徒の志望が決まるのは、受験の1年前くらいなのが現実です。そんなに早くから受験する大学・学部が決まるものではありません。成長に伴って志望が変わるのですから、当然です。そう考えると、実施する何年も前に大学受験の具体的な制度を発表しても実はあまり意味ないんですね。
それを高校の先生の立場から見ると、生徒たちの受験先はすぐには決まらず、最終的には生徒たちの受験パターンが多様になるわけですから、みんなにとって有効なことをやろうとすれば、結局は多様性に対応しなければならないわけです。しかも生徒たちはいくつかの大学を併願するわけですから、なおさらです。ですから高校の先生にとっても、個々の大学の受験パターンがどうなろうと、いつ発表されようと、実はあまり関係ないのです。
だからどう考えても、制度発表を待つのは、損なのです。大学入試改革のことが今後ますますニュースで報道されたり受験情報誌に載ったりするでしょうけれど、そんな情報を追いかけるのは無駄なのです。
だからといって、具体的な形が発表されるまでこれまでのやり方を続けるというのは、愚かです。流れはすでに決まっているからです。では実際のところどうすればいいかというと、
(学校は)生徒たちが大学で、もしくは社会で活躍できるような力を身につけさせ、
(親は)子供の良い面を伸ばしつつ、バランス良くいろんな力が育つように見守り、
(中高生は)経験を通して、大学生になるのにふさわしい学力と意欲を身につける
そのように動けば良いのだと私は思います。当たり前といえば当たり前のことを、悠然と構えてやっていけばいいのです。
念のため言いますが、私は「勉強しなくてよい」というつもりは全くありません。受験で学力が問われるのはこれからも変わりませんし、むしろ私は「大人になってからも勉強しよう」と言いたいのです。ただ、今後は
念のため言いますが、私は「勉強しなくてよい」というつもりは全くありません。受験で学力が問われるのはこれからも変わりませんし、むしろ私は「大人になってからも勉強しよう」と言いたいのです。ただ、今後は
(主に学校が)大量の課題を与え、学力試験で1点でも多く取らせるような指導をし、(主に親が)競争をあおり、脱落することの恐怖心をあおって勉強させ、(中高生が)勉強以外のことを控え、興味・関心を育てることをおろそかにする
そんなことはもう終わりにしようじゃありませんか。そのやり方で受けられる大学も当面は残るでしょうけれど、枠は減っていきます、確実に。
私は現職の中学・高校の教員ですから、その立場でもう少し語りましょう。これまで高校の教員は、極端に言ってしまえば、大学入試の下請けをしていたようなものです。これまでの大学入試では学力だけが問われてきましたから、高校生を大学に受からせるためには、生徒に学力をつけさせれば良かったのです。それがすべてとは言わないまでも、それが高校生と親の望むところでもありましたから、私たちは真っ先にその要請に応えてきたわけです。結果としてそれは「大学入試の下請け」だったと言っても言い過ぎではないように思いますが、いかがでしょうか。
このたびの大学入試改革でそこから脱することができそうだと私はワクワクしています。生徒たちを「社会で活躍できる人に育てる」という教育の本来の目的に立ち返ることができそうだと私は期待しています。そして結局は、それがそのまま大学受験の結果につながるに違いないのです。
下請けでなくなるということは、対等になるということです。対等になるということは、場合によってはリードするということです。「○○高校の生徒さんなら、ぜひウチの大学へ!」そう言わせるのもあり得ない話ではないのです。その心意気でいってこそ、私たちの職種は良い仕事ができるんじゃないでしょうか。
私は現職の中学・高校の教員ですから、その立場でもう少し語りましょう。これまで高校の教員は、極端に言ってしまえば、大学入試の下請けをしていたようなものです。これまでの大学入試では学力だけが問われてきましたから、高校生を大学に受からせるためには、生徒に学力をつけさせれば良かったのです。それがすべてとは言わないまでも、それが高校生と親の望むところでもありましたから、私たちは真っ先にその要請に応えてきたわけです。結果としてそれは「大学入試の下請け」だったと言っても言い過ぎではないように思いますが、いかがでしょうか。
このたびの大学入試改革でそこから脱することができそうだと私はワクワクしています。生徒たちを「社会で活躍できる人に育てる」という教育の本来の目的に立ち返ることができそうだと私は期待しています。そして結局は、それがそのまま大学受験の結果につながるに違いないのです。
下請けでなくなるということは、対等になるということです。対等になるということは、場合によってはリードするということです。「○○高校の生徒さんなら、ぜひウチの大学へ!」そう言わせるのもあり得ない話ではないのです。その心意気でいってこそ、私たちの職種は良い仕事ができるんじゃないでしょうか。
高校は変わるのか?
受験生は新しい大学受験制度に速やかに対応するでしょう。受験生にとってはまさに自分の問題ですから、どんな制度であれ順応するものです。また、それが大学にとって好ましい結果になることに大学は気づくでしょうから、多少手間は増えますが、やっぱり大学も新しい形を少なからず取り入れるでしょう。
さて、問題は高校です。実は高校にはなかなか変われない事情があるのです。2つのキー・ワードで説明しましょう。
具体的に言うと、「情報=知識=正解」を持っているのは先生で、それが生徒に向かって一方通行に流れていくのがこれまでの授業スタイルでした。先生が与える立場で、生徒が受け取る立場です。テストも同じで、先生が投げ込んだ「問題」というボールを、生徒が「理解・暗記」というバットで弾き返せば「○」で、うまく当てられなかったら「×」です。こういう形でこれまでは授業もテストも行われてきました。これが「情報の非対称性」です。
次に2つ目の「客観性・公平性」について。これまで高校の教員は「客観性」と「公平性」を守ることに心を砕いてきました。高校入試で、もしくは中高一貫校では中学入試で、出題ミスや採点ミスがあれば場合によっては新聞沙汰になります。そうならないように細心の注意を払ってきました。定期試験でも同じです。客観性・公平性を欠くことは教育の場にあってはならないこと、由々しき事態、生徒の一生を台無しにしかねない問題だととらえてきたのです。
ところで、なぜそんなにも客観性・公平性にこだわるのかというと、これも「情報の非対称性」ゆえです。評価に主観や不公平・不平等が紛れ込んだら「情報の非対称性」が崩れてしまうからです。平たく言うと、正解が正解でなくなってしまうからです。先生の与えるものが正しい知識でなくなってしまうからです。だから客観性・公平性を欠くことは、先生の存在意義を失わせかねない由々しき事態だと先生たちは考えるのです。
ところが新しい大学入試では、この2つが変わるんですね。これからの受験生に求められるもののうち、経験と作文にはそぐわないわけです。生徒たちは経験を通して外の情報を思い思いに取り込みます。それらが生徒たちの中でどのように生きるのか、どう結びつくのかも千差万別です。また、それを表現する際には外にある別の情報とつないで表現します。そういう情報の流れの中で、教員の優位性はどこにもありません。
ここに至って先生は、もはやティーチャー(教える人)ではありません。先生はむしろナビゲーター(誘導する人)のような存在になります。正しい知識を授け、生徒の答えが正しいか間違いかを判定する立場から、生徒たちに機会を与え、動機を誘い、助言するような立場に変わります。
そしてそうなると、客観的で公平な評価ができるはずもありません。それはもともと多様である上に、大学が多様性を確保するような選び方をするのですから、なおさらです。表面的で当たり障りのないまとまった文章と、深く切り込もうとしてハチャメチャになった文章のどちらが良いかは一概に言えません。それでも成績をつけなければならないのが学校の宿命で、それは生徒の動機付けにもなるのですが、主観を避けたら何の評価もできませんし、主観を交えれば必ずしも公平でない評価になるのは必然です。こうしてこれまでの学校で前提条件であった「情報の非対称性」と「評価の客観性・公平性」が崩れるのです。
ところで、「情報の非対称性」も「客観性・公平性」も生徒に学力をつけさせるという点においては間違ったやり方とは言えません。また、これからも大学入試で学力が問われることを考えると、今後なくなるものでもありません。けれども、これからの大学受験では他にやるべきことが現れると同時に、学力の比重が下がっていくのですから、結局は全く異なる2つのことを教員はやらなければならないことになります。
さて、教員にとっても考えなければならないことが山ほどあります。
そうは言っても、大学入試がどう変わるのか、具体的なことはまだ何も決まっていない。いったん決まったとしても、まだまだ変わるだろう。しかも、大学によって制度が異なる。さらに、どの大学もバラエティーに富む人材を得ようとする。評価もしにくい。けれども、ハッタリでもなんでもとにかく評価しなければならない。・・・こんな状況で高校はどうしたらいいのでしょう。
考えればいいんです。新しい大学受験で求められるものは「考える」ことです。それは今どきの社会で当然に求められるものだから、その反映として大学受験で求められるようになってきているのです。その流れの中で「高校の先生も考えることを求められるようになった」と思えばいいのです。受験生と同じです。
そしてその点においても、鍵となるのは「経験」と「表現」です。これまでにやったことのない授業・指導を経験し、失敗もしながら成長して、それを生徒の前で実践・披露するしかないのです。生徒がやるべきことと先生がやるべきこと、あまり変わりませんね。
実はもう一つあります。それは「多様性」。個々の先生が多様なことをやらなければならないと同時に、大事なことは教員組織が全体として多様であること。ここまで来ると、先生も生徒もまるで同じですね。
さて、問題は高校です。実は高校にはなかなか変われない事情があるのです。2つのキー・ワードで説明しましょう。
○ 情報の非対称性始めに1つ目の「情報の非対称性」について。この言葉は経済学で使う用語ですが、ここでいう「情報」とは要するに「知識」のこと。あるいは「正解」と言ってもいいものです。それが「非対称」であるとはどういうことかと言うと、「差がある」ということです。その差を利用することで、先生の仕事が成り立っているということです。
○ 評価の客観性・公平性
具体的に言うと、「情報=知識=正解」を持っているのは先生で、それが生徒に向かって一方通行に流れていくのがこれまでの授業スタイルでした。先生が与える立場で、生徒が受け取る立場です。テストも同じで、先生が投げ込んだ「問題」というボールを、生徒が「理解・暗記」というバットで弾き返せば「○」で、うまく当てられなかったら「×」です。こういう形でこれまでは授業もテストも行われてきました。これが「情報の非対称性」です。
次に2つ目の「客観性・公平性」について。これまで高校の教員は「客観性」と「公平性」を守ることに心を砕いてきました。高校入試で、もしくは中高一貫校では中学入試で、出題ミスや採点ミスがあれば場合によっては新聞沙汰になります。そうならないように細心の注意を払ってきました。定期試験でも同じです。客観性・公平性を欠くことは教育の場にあってはならないこと、由々しき事態、生徒の一生を台無しにしかねない問題だととらえてきたのです。
ところで、なぜそんなにも客観性・公平性にこだわるのかというと、これも「情報の非対称性」ゆえです。評価に主観や不公平・不平等が紛れ込んだら「情報の非対称性」が崩れてしまうからです。平たく言うと、正解が正解でなくなってしまうからです。先生の与えるものが正しい知識でなくなってしまうからです。だから客観性・公平性を欠くことは、先生の存在意義を失わせかねない由々しき事態だと先生たちは考えるのです。
ところが新しい大学入試では、この2つが変わるんですね。これからの受験生に求められるもののうち、経験と作文にはそぐわないわけです。生徒たちは経験を通して外の情報を思い思いに取り込みます。それらが生徒たちの中でどのように生きるのか、どう結びつくのかも千差万別です。また、それを表現する際には外にある別の情報とつないで表現します。そういう情報の流れの中で、教員の優位性はどこにもありません。
ここに至って先生は、もはやティーチャー(教える人)ではありません。先生はむしろナビゲーター(誘導する人)のような存在になります。正しい知識を授け、生徒の答えが正しいか間違いかを判定する立場から、生徒たちに機会を与え、動機を誘い、助言するような立場に変わります。
そしてそうなると、客観的で公平な評価ができるはずもありません。それはもともと多様である上に、大学が多様性を確保するような選び方をするのですから、なおさらです。表面的で当たり障りのないまとまった文章と、深く切り込もうとしてハチャメチャになった文章のどちらが良いかは一概に言えません。それでも成績をつけなければならないのが学校の宿命で、それは生徒の動機付けにもなるのですが、主観を避けたら何の評価もできませんし、主観を交えれば必ずしも公平でない評価になるのは必然です。こうしてこれまでの学校で前提条件であった「情報の非対称性」と「評価の客観性・公平性」が崩れるのです。
ところで、「情報の非対称性」も「客観性・公平性」も生徒に学力をつけさせるという点においては間違ったやり方とは言えません。また、これからも大学入試で学力が問われることを考えると、今後なくなるものでもありません。けれども、これからの大学受験では他にやるべきことが現れると同時に、学力の比重が下がっていくのですから、結局は全く異なる2つのことを教員はやらなければならないことになります。
さて、教員にとっても考えなければならないことが山ほどあります。
- どの教科で何をやるか、つまり教科ごとの役割分担。
- 自分の教科で何をやるか、つまり作文指導なのか経験させることなのか興味を持たせることなのか。
- そして、学力をつけさせることとの配分。
そうは言っても、大学入試がどう変わるのか、具体的なことはまだ何も決まっていない。いったん決まったとしても、まだまだ変わるだろう。しかも、大学によって制度が異なる。さらに、どの大学もバラエティーに富む人材を得ようとする。評価もしにくい。けれども、ハッタリでもなんでもとにかく評価しなければならない。・・・こんな状況で高校はどうしたらいいのでしょう。
考えればいいんです。新しい大学受験で求められるものは「考える」ことです。それは今どきの社会で当然に求められるものだから、その反映として大学受験で求められるようになってきているのです。その流れの中で「高校の先生も考えることを求められるようになった」と思えばいいのです。受験生と同じです。
そしてその点においても、鍵となるのは「経験」と「表現」です。これまでにやったことのない授業・指導を経験し、失敗もしながら成長して、それを生徒の前で実践・披露するしかないのです。生徒がやるべきことと先生がやるべきこと、あまり変わりませんね。
実はもう一つあります。それは「多様性」。個々の先生が多様なことをやらなければならないと同時に、大事なことは教員組織が全体として多様であること。ここまで来ると、先生も生徒もまるで同じですね。
大学入学の選抜基準が変わる
大学入試制度が変われば、大学が入学生を選抜する基準も変わります。どのように変わるかというと、
説明しましょう。「何をすれば何点、何が書いてあれば何点」などという基準を設けたら、受験生はすぐさま対応して、みんなが同じような経験をして、みんなが同じような文章を書くことになるからです。それじゃあ大学側は選べないし、読んでいて面白くもない。いや、きっと読まないでしょう。こうして経験・作文を課すことに意味がなくなります。従来型の学力のみの一斉一発試験の方が百倍マシだということになるはずです。
もっと幅を広げて、あるいは細かく評価しても同じことです。たとえばクラブ活動していたら1点、大会入賞でプラス何点。ボランティア活動は種類に応じて何点、日数に応じて何点。その他の記載事項のうち評価できそうなものは適宜加点。・・・そうなると受験生はポイントを稼ぐために嫌々ながらもいろんなものに手を出すでしょう。それを通じて何を得るかなどには無関係に、形を整えようとするでしょう。こうして誰も得しない結果になります。
受験生の側から見てみましょう。受験生の中に「アピールするなら、人と違うもの」と考える人も少なからずいるはずです。多くの受験生が似たような文章を書いているなら「人と違う」というだけで好印象間違いなしです。実際、何百人・何千人の受験生が書いた文章を読むのは大変な作業です。つまらない文章、同じような文章ばかり読むのは苦痛です。
こうして結局は、同じようなものの中で特に素晴らしいもの数点を選ぶ一方で、その他の個性的な文章から多くを選ぶことになります。そうなるのは当然ですよね。みんなと同じという時点で、それは採点者にとって「読みたくない」文章なのです。みんなと違うという時点で、それは採点者にとって「期待できる」文章なのです。
こうして結果として「多様性の確保」が実現されるのです。こうならざるを得ないのです。
大事なのは、その次です。合格者が入学した後に、その取り方が実にうまく機能することに大学は気づくでしょう。大学での研究は、チームで成果を出すものです。そのためには役割を分担して、リーダーがいたり裏方がいたりして、各自が得意分野で力を発揮するのが一番うまく回るんですね。違う発想どうしが融合したり、異なる見方が新しい工夫につながったりして、多様性を確保することが学生にとっても大学にとっても良いことだと認識するはずです。
考えてみると、従来型の入試はその真逆ですね。これまではみんなが一斉に同じテストを受けて、点数の高い順に合格させていたわけですから、まさに画一的な人材を取っていたようなものです。全員にすべてのことを平等に求めていたわけです。サッカーで11人全員がボールを追いかけているようなもので、それではむしろ効率が悪いんですね。ポジションと役割を決めてプレーするチームにはまず勝てないでしょう。会社に入ってからも同じですよ。全員が「自分のプランの方が優れている」と競争する組織より、得意分野を引き受けたり弱い部分をカバーしあったりするような組織の方が成果が上がるでしょうね。
また、新しい大学受験の形は、別の意味でも多様性の確保につながります。たとえば今どきの経済学部・商学部では「一定割合は理系の学生がほしい」と考えているはずです。従来型の一斉試験では難しいですが、新しい大学受験の形なら簡単ですね。志願者のうち理系の人の中から何人か選べばいいだけです。そういう形でも多様性が確保できます。哲学系・心理学系でも同じことを考えると思いますが、同じやり方で簡単にできます。
あるいは理系学部であっても技術系の人ばかりでなく、デザインに秀でた人もいた方がいいですね。デザインというのは物の形ばかりではなくて、使い方や周辺にある物との関係性を考えることもデザインです。芸術性というよりも、生活スタイルを変えるという意味でのデザインです。これからの理系学部では、積極的にそういう人材も一定割合で確保しようとするでしょう。それができるのが、新しい大学受験の形なのです。
このようにして新しい大学入試では必ず多様性が確保されるのです。むしろ大学としては、積極的に「多様な人材を確保する」ことを選抜の基準に置く方がうまくいくのです。そしてそれに合わせて受験生が対策を立てれば、それが誰にとってもハッピーなんだろうと私は思います。
数年後の入試の採点の現場は、きっとこんな光景でしょう。受験生の文章を読む採点官の横にカゴが5つ置いてあります。カゴには次の5種類の紙が貼ってあります。
○ 多様性を確保するこのように変わります。細かく見れば、何種類かある資料のうちどれにどれくらいの比重を置くかとか、それぞれの評価の基準をどのように設定するかとか、それは大学によっても学部によっても違うでしょうけれども、トータルで見ると「多様性を確保する」方向で選抜することになります。そうならざるを得ないのです。
説明しましょう。「何をすれば何点、何が書いてあれば何点」などという基準を設けたら、受験生はすぐさま対応して、みんなが同じような経験をして、みんなが同じような文章を書くことになるからです。それじゃあ大学側は選べないし、読んでいて面白くもない。いや、きっと読まないでしょう。こうして経験・作文を課すことに意味がなくなります。従来型の学力のみの一斉一発試験の方が百倍マシだということになるはずです。
もっと幅を広げて、あるいは細かく評価しても同じことです。たとえばクラブ活動していたら1点、大会入賞でプラス何点。ボランティア活動は種類に応じて何点、日数に応じて何点。その他の記載事項のうち評価できそうなものは適宜加点。・・・そうなると受験生はポイントを稼ぐために嫌々ながらもいろんなものに手を出すでしょう。それを通じて何を得るかなどには無関係に、形を整えようとするでしょう。こうして誰も得しない結果になります。
受験生の側から見てみましょう。受験生の中に「アピールするなら、人と違うもの」と考える人も少なからずいるはずです。多くの受験生が似たような文章を書いているなら「人と違う」というだけで好印象間違いなしです。実際、何百人・何千人の受験生が書いた文章を読むのは大変な作業です。つまらない文章、同じような文章ばかり読むのは苦痛です。
こうして結局は、同じようなものの中で特に素晴らしいもの数点を選ぶ一方で、その他の個性的な文章から多くを選ぶことになります。そうなるのは当然ですよね。みんなと同じという時点で、それは採点者にとって「読みたくない」文章なのです。みんなと違うという時点で、それは採点者にとって「期待できる」文章なのです。
こうして結果として「多様性の確保」が実現されるのです。こうならざるを得ないのです。
大事なのは、その次です。合格者が入学した後に、その取り方が実にうまく機能することに大学は気づくでしょう。大学での研究は、チームで成果を出すものです。そのためには役割を分担して、リーダーがいたり裏方がいたりして、各自が得意分野で力を発揮するのが一番うまく回るんですね。違う発想どうしが融合したり、異なる見方が新しい工夫につながったりして、多様性を確保することが学生にとっても大学にとっても良いことだと認識するはずです。
考えてみると、従来型の入試はその真逆ですね。これまではみんなが一斉に同じテストを受けて、点数の高い順に合格させていたわけですから、まさに画一的な人材を取っていたようなものです。全員にすべてのことを平等に求めていたわけです。サッカーで11人全員がボールを追いかけているようなもので、それではむしろ効率が悪いんですね。ポジションと役割を決めてプレーするチームにはまず勝てないでしょう。会社に入ってからも同じですよ。全員が「自分のプランの方が優れている」と競争する組織より、得意分野を引き受けたり弱い部分をカバーしあったりするような組織の方が成果が上がるでしょうね。
また、新しい大学受験の形は、別の意味でも多様性の確保につながります。たとえば今どきの経済学部・商学部では「一定割合は理系の学生がほしい」と考えているはずです。従来型の一斉試験では難しいですが、新しい大学受験の形なら簡単ですね。志願者のうち理系の人の中から何人か選べばいいだけです。そういう形でも多様性が確保できます。哲学系・心理学系でも同じことを考えると思いますが、同じやり方で簡単にできます。
あるいは理系学部であっても技術系の人ばかりでなく、デザインに秀でた人もいた方がいいですね。デザインというのは物の形ばかりではなくて、使い方や周辺にある物との関係性を考えることもデザインです。芸術性というよりも、生活スタイルを変えるという意味でのデザインです。これからの理系学部では、積極的にそういう人材も一定割合で確保しようとするでしょう。それができるのが、新しい大学受験の形なのです。
このようにして新しい大学入試では必ず多様性が確保されるのです。むしろ大学としては、積極的に「多様な人材を確保する」ことを選抜の基準に置く方がうまくいくのです。そしてそれに合わせて受験生が対策を立てれば、それが誰にとってもハッピーなんだろうと私は思います。
数年後の入試の採点の現場は、きっとこんな光景でしょう。受験生の文章を読む採点官の横にカゴが5つ置いてあります。カゴには次の5種類の紙が貼ってあります。
・ 絶対ほしいカゴに採点官が作文をポンポン投げ入れる。1分以内で読み終える作文の行先は「いらない」です。ものによっては1行読んだだけで行先が決まります。こんな選び方が一番いいんだろうなと私は思います。それ以上細かく評価することは出来ないし、基礎学力が確保されている上で多様性を確保するには、それで十分だろうと思うわけです。一通り読んでもらえる作文、「絶対ほしい」か「ほしい」に入る文章を書いてくださいね。
・ ほしい
・ どっちでもいい
・ いらない
・ 来てほしくない
志望理由書に何を書くか、面接で何を話すか
これからの大学入試では学力試験以外に「志望理由書」を提出したり、個別面接もしくはグループ面接があったりするでしょう。さて、志望理由書に何を書くか? 面接で何を話すか?
ズバリ言いましょう。あなたが書いたものを読む人、あなたの話を聞く人は「あなたがどういう人か?」を知りたいのです。相手はあなたのことを何も知らないのですから、あなたが何を書こうが、何をしゃべろうが、相手は「あなたの人となり」を受け取るのです。ですから、あなたは
あなたの自己紹介が「氏名、住所、生年月日」だけであったら、間違いなく不合格です。「趣味は読書です」だけで終わったら、やっぱり不合格です。「実家は農家で、先祖は水呑み百姓・・・、そして私は・・・」、これなら合格するかもしれません。「あなたがどんな人か?」が見えればとりあえずOK、見えなければ失格、自己紹介とはそういうものです。
「大学で○○を学びたい」、「私は○○と考える」、「○○コンクールで入賞した」、これらは立派な自己紹介です。あなたが相手に「ほぉーっ、なかなか大した奴だな」と思わせれば、それがあなたの自己紹介です。あなたの文章が支離滅裂で意味不明なら、それがあなたの自己紹介です。大して中身のないことをさも素晴らしいことのように大げさに語れば、それがあなたの自己紹介です。
これからの大学入試で評価の対象になるのは、基礎学力とあなたの人となり。前者はペーパー・テストで試されて、後者のために作文や面接が課されます。後者について、自己アピールしようとか、プレゼンしようとかいうのはきっと失敗するでしょう。中身がないのに体裁を整えようとしてもすぐにバレます。そこは素直に「自己紹介」する心構えでいきましょう。そしてそのために、高校3年間で自分を豊かに育てていきましょう。結局はそこが問われるのですから。
ところで、私は別の記事で「自分の見方を書く」と言いました。そのことと「自己紹介」は矛盾するものではありません。自己紹介といっても、事実をたくさん並べればいいというものではありませんね。むしろ字数制限・時間制限がある中では、取り上げる事柄を絞った上で「自分のとらえ方・視点・見方」を表現する方が効果的です。大学側はあなたが経験したこと・考えたことを全部知りたいわけではなくて、「あなたがどういう人か」を知りたいのであって、それは「あなたのものの見方」の中にあるのです。それが一番の自己紹介になるのです。
就活も同じだろうと思います。「高校3年間」を「大学4年間」に、「高校時代に経験した」を「大学で研究した」に、「大学で○○を学びたい」を「○○の仕事をしたい」に読み替えれば、そのまま就活の心得になるでしょう。
ズバリ言いましょう。あなたが書いたものを読む人、あなたの話を聞く人は「あなたがどういう人か?」を知りたいのです。相手はあなたのことを何も知らないのですから、あなたが何を書こうが、何をしゃべろうが、相手は「あなたの人となり」を受け取るのです。ですから、あなたは
自己紹介をすればいいのです。それが志望理由であれ、これまでに経験したことであれ、大学で学びたいことであれ、自己紹介に徹すればいいのです。意見を求められても、感想を聞かれても、質問に答えるときも同じです。相手は「あなたがどういう人か?」を見ているのですから、文脈を大きく外さない範囲で「自分はこういう人間だ」ということを伝えればいいのです。
あなたの自己紹介が「氏名、住所、生年月日」だけであったら、間違いなく不合格です。「趣味は読書です」だけで終わったら、やっぱり不合格です。「実家は農家で、先祖は水呑み百姓・・・、そして私は・・・」、これなら合格するかもしれません。「あなたがどんな人か?」が見えればとりあえずOK、見えなければ失格、自己紹介とはそういうものです。
「大学で○○を学びたい」、「私は○○と考える」、「○○コンクールで入賞した」、これらは立派な自己紹介です。あなたが相手に「ほぉーっ、なかなか大した奴だな」と思わせれば、それがあなたの自己紹介です。あなたの文章が支離滅裂で意味不明なら、それがあなたの自己紹介です。大して中身のないことをさも素晴らしいことのように大げさに語れば、それがあなたの自己紹介です。
これからの大学入試で評価の対象になるのは、基礎学力とあなたの人となり。前者はペーパー・テストで試されて、後者のために作文や面接が課されます。後者について、自己アピールしようとか、プレゼンしようとかいうのはきっと失敗するでしょう。中身がないのに体裁を整えようとしてもすぐにバレます。そこは素直に「自己紹介」する心構えでいきましょう。そしてそのために、高校3年間で自分を豊かに育てていきましょう。結局はそこが問われるのですから。
ところで、私は別の記事で「自分の見方を書く」と言いました。そのことと「自己紹介」は矛盾するものではありません。自己紹介といっても、事実をたくさん並べればいいというものではありませんね。むしろ字数制限・時間制限がある中では、取り上げる事柄を絞った上で「自分のとらえ方・視点・見方」を表現する方が効果的です。大学側はあなたが経験したこと・考えたことを全部知りたいわけではなくて、「あなたがどういう人か」を知りたいのであって、それは「あなたのものの見方」の中にあるのです。それが一番の自己紹介になるのです。
就活も同じだろうと思います。「高校3年間」を「大学4年間」に、「高校時代に経験した」を「大学で研究した」に、「大学で○○を学びたい」を「○○の仕事をしたい」に読み替えれば、そのまま就活の心得になるでしょう。
入試が入活に変わる
(2016年2月)
就活(就職活動)、婚活(結婚活動)など「〇活」という言葉がありますが、まもなく「入活」という言葉が流行るでしょう。「大学入学のための活動」です。大学入試改革で、これまでの入試(入学試験)から入活(入学活動)に変わるのです。
出願書類も変わります。これまでは住所・氏名などの欄を機械的に埋めて受験料を払い込めば手続き完了でしたが、これからは活動履歴やレポートなども作らなければなりません。書類審査が通ったら、続いて面接があったり、筆記試験があったりして、内定(合格)を取るまでに時間もかかります。内定をたくさんもらってどこに行こうか迷う受験生、まったく内定が取れずに途方に暮れる受験生も出てくるでしょう。そう、これからの大学受験は今の就職活動のようになるのです。
そうは言っても、ある日突然すべてがひっくり返るわけではありません。これまでも推薦入試やAO(アドミッションズ・オフィス)入試という形がありましたし、これからも従来型の一斉一発入試は残るでしょう。おそらく当面は一斉一発型と入活型が併存しながら、割合が変わっていくのでしょう。でも後戻りはしません。一斉一発型から入活型への流れは一方通行です。
ここで「AO」の意味を説明しましょう。日本で「AO入試」というと「入学試験の1つの型」のような意味になりますが、もともとの意味はそうではありません。AOは英語でいうと「Admissions Office」(アドミッションズ・オフィス)、つまりは「大学入学者を選定するための事務所」です。入試の型ではなくて、組織です。欧米の大学には必ずあって、入学者選定のために1年中仕事をしている専門の組織です。
日本の大学入試制度改革が取り入れようとしているものは、要するにそれ、欧米型の大学入学のスタイルです。一斉一発試験で学力だけを問うのではなくて、多面的・総合的に受験生を評価しようという試みです。これまでは名前だけとりあえずAOと名乗ってみたものの実態が伴っていなかったものを、実質的に欧米型に近づけようとしていると考えればわかりやすいでしょう。
なぜその方向に切り替えるのかというと、学力だけを問うこれまでの大学入試の形では日本人の能力が十分に発揮できないからです。日本の中高生が学力をつけることばかりに力を注いで、他のことに力を注がないからです。学力はあっても知的欲求は育たず、大人になると途端に勉強しなくなるからです。
さらに、人気のある大学であっても国際的な評価が低く、人気のない大学では大学の体をなしていないからです。現状の日本の大学は学力だけで輪切りされているみたいなものですから、そうなるのは必然でしょう。
ガラパゴス化(日本でしか通用しない形)している大学制度をグローバル・スタンダード(≒欧米型)に合わせていこうという意味もあります。
大学入試改革の音頭をとっているのは文部科学省です。文部科学省が直接力を行使できるのは国立大学ですが、国立大学が変われば私立大学も変わります。ターニングポイントは2020年度(現中学1年生が大学受験する年)で、この年からセンター試験が変わります。具体的なやり方はまだ決まっていませんが。
それに先立って2016年度入試から東京大学と京都大学で推薦入試が始まりました。定員枠はまだ小さいですが、少しずつ増えていくでしょう。2016年2月時点で始まっているもの・発表されているものはこれくらいですが、変化はまだまだ続きます。
この変化は大きいですよ。戦後からずっと続いていた大学入学の形が初めて変わるのです。外国で学んだ少数の人を除いて、日本人がほとんど誰も経験したことのないものになるのです。
でも、大きな変化・抜本的な変化ほど、定着するのは早いんじゃないかと私は予想しています。この変化にどう対応するか。受験生の立場、高校の立場、大学の立場、それぞれ対応の仕方は異なります。
2020年2月2日日曜日
☆ 悩み
忘れようとしても、忘れられない。
振り払おうとしても、まとわりついてくる。
逃げても隠れても、律儀に追いかけてくる。
なぜか?
それが自分の大切なものだからだ。自分の一部だからだ。
「悩むこと」と「考えること」を同じものだと捉えよう。
それだけで、きちんと考えることができて、無駄に悩むことが無くなる。
振り払おうとしても、まとわりついてくる。
逃げても隠れても、律儀に追いかけてくる。
なぜか?
それが自分の大切なものだからだ。自分の一部だからだ。
◇ 悩みはなぜ悩みなのか?では、どうすればいいのか?
◇ 疑問は解答の可能性である
◇ 「考えることに価値がある」という確信
◇ マリモ型の思考
「悩むこと」と「考えること」を同じものだと捉えよう。
それだけで、きちんと考えることができて、無駄に悩むことが無くなる。
悩みを避けていては、しまいに人は考えることをしなくなる。
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